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未遂事件

 私の生まれ育った実家に残る”重大な”事件について記そうと思う。まぁ、既に60年近く経過して、とっくに時効だけれど。
 これは、元々私の記憶の中にはなかったはずなのに、幼い頃より今に至るまで、幾度となく繰り返し聞かされてきたので、まるで自分の記憶のように頭の中にインプットされている。
 私は2歳。いつものように、今日も父、兄と連れ立って、駅へ向かった。当時、新聞記者であり、この町にある新聞社の支局長だった父は、記事を書くと駅からその原稿を送っていた。今のように、インターネットなど、無い。父は手書きの原稿に、自分で現像し、印画紙に焼き付けたモノクロ写真を添えて、列車で荷物を輸送する”チッキ”という手段で支社に送るのだった。
 そんな毎日の仕事に、子煩悩な父はわれわれ兄妹を連れて歩くことが多かった。その日は駅での用事が済んだ後、箱入りのキャンディを買ってもらうことになった。私は大喜びだ。父はこう言った。
「いいかい、みみこ、キャンディ買うけれど、お兄ちゃんにもあげるんだよ」
「うん!」
私は大きくうなづき、赤い箱に入った大好きなキャンディを買ってもらったのだ。父の運転する自家用車で駅まで来ていたので、もちろん帰りも車に乗った。
 私は、キャンディを一つ頬張った。箱を胸に抱きしめて。美味しい。箱は離さない。兄には一つも渡さない。
「みみこ、お兄ちゃんにもあげる約束だったよね」
と運転席から父の声。
「いやだ、あげない」
と私。
 その押し問答が何度か続いたのだろう。とうとう、父は私を叱り始めた。たぶん、堪忍袋の尾が切れちゃったんでしょうね。まぁ当たり前と言えば当たり前。わがまま娘です。

「わかった。そんなにいうことが聞けないなら、海に投げる」

 ここで勘違いなさらないで、皆さん。海に投げられるのは、箱入りキャンディではなく、わ・た・し。
 さあ大変。それでも私はガンとしてキャンディを離さない。車はどんどん海へ向かっていく。
どんどん、どんどん、どんどん、どんどん。
 とうとう海まで来てしまった。キィっと音がして、車が止まった。万事休す。
 かと思いきや、沈黙を破って兄が叫んだ。

「お父さん‼︎ お兄ちゃんはキャンディ要らないから、みみこを海に投げないで‼︎」

 私が今、ここでこうしていられるのも、父が犯罪者にならずに済んだのも、はい、間違いなく、お兄様、あなたのお陰です。その節は大変お世話になりました。
 そして、私が最後までキャンディを独り占めしたかどうか。それに関しては全く記憶にございません。

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