ビデオ判定〜V A Rや大相撲の物言いに思うこと
僅か1ミリで勝利を手にした、サッカー日本代表の“三笘の1ミリ”は記憶に新しいところだ。ボールはラインを割ったように見えた。しかしVARの判定はオンライン。これほど明快なことはない。誰にも文句は言わせない。
過去にはあのマラドーナの“神の手”や、ゴールに確かに入ったものが“入っていない”と判定された幻のゴールもあった。また、素人が見てもいかにも怪しい笛も随分目にしてきた。そんな中、少なくとも勝敗に関わる重要な場面での誤審を無くそうと試行錯誤が重ねられてきたのだろう。
しかし、時にそこまでやらなくても、と感じるのは私だけだろうか。
この技術は、良きにつけ悪しきにつけ、スポーツ界を変えた。こんな鋭い鷹の目に監視されていたら、どんなに懸命に判定しても覆される場面が増えるし、もはや人間の審判は不要なのでは?と考える向きも少なくないだろう。レフェリーも審判も大変なご時世だが、角界はどうなのだろう?とはたと思った。
大相撲には『物言い』という制度がある。物言いとは、行司が下した判定(軍配)に対し、審判委員や控え力士が異議を唱えることを言う。判定するのは、行司と5人の勝負審判。古来より続く相撲の世界、ビデオ検証なんてずっと未来の話、あくまでも土俵際の砂に残る痕跡や、肉眼で見た記憶を頼りに話し合い、裁いていったと推察される。
そして長い時を経て、ビデオ判定が導入された。
きっかけは、1969年3月場所、横綱大鵬と前頭筆頭戸田の一番、後に『世紀の大誤審』と語り継がれる事になる。
戸田の右足が俵を踏み越えるのと、大鵬の体が土俵を割るのがほぼ同時に見えた。軍配は大鵬にあがったが、物言いがつき協議の結果、大鵬が先に土俵を割ったとして、行司差し違えで戸田の勝ちとなった。大鵬の連勝は45でストップ。
しかし、中継映像では戸田の足が先に出たように見えた。NHKはニュースで、この場面をスローモーションで放送、報知新聞は一面で写真を大きく掲載した。日本相撲協会には抗議の電話が相次いだという。
先日、九州場所をテレビ観戦中、珍しい場面に遭遇した。宇良対平戸海、二度の物言い、二度の取り直し、計三番の熱戦だった。最後は誰の目にも明らかな宇良の勝ち。解説者は、やる方は大変ですと呟いた。そうだろう。だが、観ている方は拍手喝采だ。
選手も審判も人間、もちろん誤審は無いに越したことはない。しかし、誤審も含めてその競技の持つ姿だと、かつて世間は心得ていたのではないだろうか、今よりずっと大らかな心持ちで。
選手というのは、文字通り選ばれた人。抜きん出た身体能力や技術は、誤審が起きてしまうほどのスピード、そして勝負に対して危険なほどしぶとく、際どく、瞬き厳禁だ。
それを瞬時に正しく裁くには、鋭い目と研ぎ澄まされた判断力が必要になる。それはもう異次元の領域だし、それが世界中で行われているあらゆる競技の、試合という試合に必要だとしたら、不可能だ。
そう考えると、審判に対してこれ以上無理難題は押し付けられないと、とっくにわかっていた事だ。
ビデオ判定導入は、裏を返せば、人間の技量では判定不可能と白旗をあげた事に他ならない。世の中からアナログが排除されつつある昨今、勝敗に対する人々の感覚も同様で、疑わしきは全て“機械”で確認だ。
贔屓のチームや選手に納得のいかない判定を下されたら、それはたまったものではない。しかし以前は、試合において審判は絶対であり、その世界の神だった。だが今や、むしろ人の目を介さずAIが全てを裁くことこそが正しいとされる時代の到来前夜となった。AIが凡そ間違った判断を下したとしても、人々は、AIがそう言うのならと納得するのだろうか。
出来れば、文明の力は伝家の宝刀として温存し、いざという時だけ使用して欲しいとファンとしては希望する。人間のやっている事にもう暫くの間、血の通った判定を下す猶予も欲しいし、試合が最高潮に盛り上がっている時にビデオチェックで待たされるのは少々興醒めなので。