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4月1日

 父、緊急入院。母からの一本の電話で、金曜夜ののんびりした空気は一変した。三日前に実家から帰京したばかりだ。
 聞けば、私が帰ったその日に九十歳の父は発熱した。熱は下がらず、腹痛も伴い、今から救急車で病院へ搬送されるという。原因のわからない高熱が続いていたとは…。

 私は自宅に戻ったばかりだったので、体制を整えるのに少し時間が必要だったが、数日後再び帰省した。

 実家は札幌市内。羽田空港から新千歳空港へ飛び、千歳からはバスで小一時間だ。

 私はドキドキしていた。危険だとも、もちろん危篤だとも言われてはいない。しかし、いつもは感じない緊迫感が私を追いかけて来て、すっかり包み込んでしまった。数日前まで私が居て、疲れさせちゃったのかな、そんなことを考えていた。

 入院三日目、発熱は胆嚢炎によるものと断定された。胆嚢内にできた胆石が、胆汁の通り道を塞いでしまい、胆嚢がパンパンに腫れている。若ければ手術で石を取り除くのが最適らしいが、父は九十歳、手術は無理だとハッキリ告げられた。
 選ばれた処置は、皮膚の上から針を刺し胆汁を抜くこと。それでも回復に向かわない場合は、胆嚢と十二指腸の間にバイパスを通し、胆汁を流すというものだった。

 それらの処置を受ける毎に同意書にサインするのだが、こんな時、我々にできる事は何もない。差し出された紙にサインし、成功を祈るだけだ。無力感に襲われる。そこからはひたすら待つのみだ。

 果たしてバイパスを通す処置は成功。医師から安心してくださいとの言葉を聞き、ホッとしたのは実家到着直後だった。

 翌日、父と面会した。おそらく今話している事は覚えていないだろうと感じる、止めどない話しっぷり。
 私にも似たような経験があった。ちょっとした手術だったが全身麻酔から目覚めた時、後から考えると恥ずかしくなるほど私は喋り立てた。それも、どうでも良いことを親友に向かってつらつらと。しかし、私は喋る私を止められなかった。たぶん薬のせいだ。
 今、目の前にいる父も同じなのだろう。しかし、父の場合は私たちに何かを伝えたいのだと確信して聞き耳を立てていた。
 面会の15分という制限時間は既に越えている。とうとう看護師さんに叱られて、病室を後にするギリギリまで父は演説した。これが最後かもしれないみたいに。

 翌日はまだ微熱はあるものの、絶食からお粥にランクアップ。少しずつ快方に向かってくれると良い。さらに翌日は点滴が外された。多少記憶の曖昧さは残るが、ずいぶん元気になってくれたと胸を撫で下ろした。

 夕刻、母と、急遽駆けつけてくれた姪と私、三人で夕食を終え、食器を片付けていた。
 トルルルル、父から電話だ。
「週明けに退院する」

 えっ?どーゆーこと?週明けって、今日は金曜。三日後?4月1日?いやいやいや、そんなはずないでしょ!?そんな短期間で退院なんて、にわかには信じられない。いや待て、まさか、エープリルフール、じゃないよね…。

 4月1日、父は晴れて退院した。

 これは3月29日に書いたものだ。実は、最後の一行だけ、架空だった。願いを込めて。
 週明けの4月1日、病院に確かめた。「順調なら、数日で退院です」と看護師さん。今日がエープリルフールなのがちょっと気になるけど‥。

 それから二日後、今度こそ本当に、父は退院した。

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