吉田義男さんの思い出:1985年タイガース優勝
既報のとおり、阪神タイガースの元選手・監督の吉田義男さんが逝去されました。享年91歳。まだまだ元気でお過ごしだと思ってましたが、本当に突然の訃報でした。
1989年から1996年までフランスで野球の代表監督を務め、フランスではマイナーなスポーツである野球の普及に尽力されたり、晩年の野球解説では、縁側でおじいちゃんがお茶をすすりながらほのぼのしゃべっているようだったり、、想い起こされることは数多ございます。
しかし、やはり一番の思い出は、1985年タイガース21年ぶりのリーグ優勝、並びに球団初の日本一でしょう。
「選手一丸となって」「今年は土台作り」「ウチはあくまで挑戦者」――当時の吉田監督は取材に対しても、このフレーズを繰り返すばかりで、記者たちが記事を書くのに難儀していたとか。。しかし、その理念の徹底が実ってか、日本一という悲願が成し遂げられたのです。
中でもこの年一番の「神采配」は、リーグ優勝を決めた試合ではないでしょうか。
1985年10月16日 神宮球場にて。この日ヤクルト相手に勝つか引き分けるかでリーグ優勝が決定。
3−5とリードを許して迎えた9回表。先頭バッターの4番掛布雅之がレフトボール直撃のソロホームラン!球場のボルテージが一気に揚がると、勢いそのまま5番岡田彰布がセンターオーバーの2塁打。
続く6番に代打 北村照文をコール。吉田監督・土井ヘッドコーチもベンチ前に出てきて北村に何やら指示を出す。100%バントのシーンなのですが、そんな一挙手一投足にもワクワクする。一枝修平コーチの出すサインにも緊張が走ります。そんな中、北村は見事送りバントを決める。これで1死3塁。
7番にも代打 佐野仙好が告げられる。怒涛の代打攻勢。代打は他にも、弘田・永尾などもいるなど、この年の選手層は厚い。そしてこの場面で起用された佐野はセンターへ犠牲フライを放ち、ついに同点に追いつく!
この瞬間の球場の雰囲気はとんでもない盛り上がり。甲子園球場と思わせるほど、いや、それ以上にも感じさせるほど、スタンドは上を下への大騒ぎ。
それもこれも、吉田監督の名采配ありき、です。絶対にこの試合で決める、このチャンスで1点をもぎ取る!という執念の采配です。この吉田監督の熱量あふれる采配が、球場全体を覆いつくしたのです。
そしてこの試合は同点のまま10回裏を中西清起が締め、21年ぶりのリーグ優勝を果たしました。この時、筆者は小学生でしたが、この試合はビデオテープが擦り切れるほど何回も見たものです。特に瞬時にして暗黒時代を迎えてしまったので、この時の映像をしがんでしがんで、しがみ倒してました。
でもこんなすごい展開を、しかも幼いころに覚えてしまうと、そりゃ阪神ファンが体に染みついて拭えないですよ。それくらい、阪神タイガース、ひいては野球の魅力を、吉田さんに伝えてもらった気がするのです。
1985年から、計らずも実に38年の永きに亘って、「タイガース日本一監督」という唯一無二の存在であり続けてしまわれました。2023年に岡田前監督が悲願を成し遂げて、両雄が並び立つ時代がようやくやってきた、、と喜んでおりましたが、それも2年も経たず、こんな日を迎えてしまいました。
「タイガース日本一監督」が世界で1人しかいない、という状況が続いてしまわないように、今年のタイガースには是非勝ってもらわないといけません。それが吉田さんに対する、何よりの弔いになるでしょう。