【歌詞語り】緑黄色社会「恥ずかしいか青春は」& 森田公一とトップギャラン「青春時代」
緑黄色社会「恥ずかしいか青春は」
発売年:2024年
作詞・作曲:長屋晴子
この歌のタイトルはいわゆる「反語」という表現技法でしょう。
「恥ずかしいか、青春は?いや恥ずかしくない!」ということです。
「青春」に邁進する若人を全肯定するその振り切り具合は実に好感がもてます。長屋晴子さんの「声」も良いです、実に良い。
ただ、歌詞の中で、ちょっとハッとさせられたのは、、
のフレーズ。これは歌い手(長屋さん)が若者に対して言っている、つまり「歌い手」→「若者」というベクトルになっていると理解され、筆者は「長屋さん、そっち側?」と思ってしまいました。
いや、よいのです。いつでもどこでも、若者と同目線なんて無いですから。単に歌い手が「青春の日々を忘れないでね」と若者に対してエールを送っている、という話です。
よいのですが、筆者はどうしても、こっちの方が刺さってしまいますね。
森田公一とトップギャラン「青春時代」
発売年:1976年
作詞:阿久悠
作曲:森田公一
歌い手は「青春時代『後』」がどうなるかも知っているのですが、そのうえで「青春時代の『真ん中』」を「今現在」の軸として歌っている分、その只中にいる人の共感を呼んだり、心に刺さったりするのでは、と思います。筆者も「刺された」一人でした。すでに「懐メロ」として聴いていたのですが、スポーツが出来たわけでもなく、リア充でもなく、足りないものがたくさんあったように思えた「青春時代の『真ん中』」にいた自分の心の鐘を響かされたものです。そしてまんまと青春を「ほのぼの思う」今日この頃です。
しかし、「青春時代」から「恥ずかしいか青春は」まで、48年か。。
そりゃ半世紀も経てば「青春」の姿形は変わってしかるべきですが、一瞬でも恥ずかしくなったり、道に迷ったり、何か持て余してしまうような感情は、青春の「根幹」に変わらず存在するのだ、とも思います。
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