それでも「M-1」見ます:堀江貴文氏の「M-1つまらない」発言に思う
堀江貴文さんは「M-1」は面白くないと思っているようです。
これに対しては、粗品さんのYouTubeで見事に整理されているので、ことさら堀江さんや粗品さんの向こうを張る気はありませんが、、
インターネットの片隅で、私見を記しておきます。
まずは、「M-1的なお笑いだけでは、お笑い界は頭打ちになる」と堀江さんが上記で述べておられることは、その通りかと思います。M-1だけが漫才ではないし、お笑いは色んな形があってしかるべきです。とにかく明るい安村さんや、チョコレートプラネットが世界で活躍されていることにも言及されておられますが、そうした活躍も評価されるべき、というのは異論がありません。筆者もそのような趣旨のことは記しております。
一方で「『ボケ』『ツッコミ』という構造上、笑いの予測がつきやすいので、つまらなくなる」という趣旨の件ですが、「予測がつきやすい=面白くない」は単に嗜好の問題では?という気もします。
「予想外」というところに笑いを求める人もいれば、「予定調和」(いわゆる「ベタ」もその一種)にそれを求める人もいるでしょう。ちょっと話はずれるかもしれませんが、「落語」特に「古典落語」なんてその最たるものでしょう。「落語は言語能力低い芸」かというと、絶対そんなわけないです。なので、漫才の1ジャンルであるM-1も、それを楽しんでいる人の言語能力が低いというのは、納得しがたいですし、したくないですね。
堀江氏のいう「言語能力」が低くても「M-1」を楽しめるなら、そっちを選びます。
最後に。「『ボケ』『ツッコミ』を、永きに亘ってエンタメとしてやってきたのは何故?」というのも考える必要があると思います。漫才の起源は平安時代後期の「千秋万歳(せんずまんざい)」とのこと。それが紆余曲折を経て現在の形になって残っているのは、それだけで深い理由があり、程度の低い話ではないと思います。これについての深耕は、自らの今後の課題といたします。