彼女のチョコレートと優しい冗談
2月14日。本来であれば何気無い冬の1日である。
けれど世の男は意識していないと言わんばかりに女の一挙手一投足に目を見張り、世の女は好きな男に如何なる瞬間にそれを渡すべきか思考を凝らす。
一説によると企業が売上向上の為、宣伝を促しイベント化を図った戦略的なものらしい。
甚だ馬鹿馬鹿しい。ただその一言に尽きる。
手作りであろうと市販の物であろうと所詮はチョコレートである。
欲しくないと言えば嘘になってしまう。ただ肝心な事はどれ程手に入るかではなく誰から手に入れるのか、というものだ。
人生18年目の2月14日こそ、こうして背伸びした思いに浸るしかなかったのだ。
林 おはよう。
○ おはよう。
林 バレンタインだね。
○ うん。
林 チョコ欲しい?
○ 別に、特別欲しい訳ではないけど余ってるなら。
林 それじゃだめ。
○ 僕の分あるの?
林 うん、でも素直に欲しいって言わなきゃあげない。
○ そういうの苦手だって知ってるじゃないかよ。
林 チョコの為なら頑張れるでしょ?
○ 別に。チョコよりも小説とかの方が有難いくらいだよ。
林 じゃあ、あげない。
○ 悪かったよ。林様の絶品チョコを頂きたいです。
林 良かろう。はい。
○ ありがとう。念の為、確認だけど義理だよね?
林 本命の方が嬉しかった?
○ 、、ご冗談を。
林瑠奈。容姿端麗で品のある性格と時折覗かせる笑顔で多くの男子学生の恋の的となっている。
当然、僕も例外ではなく彼女に好意を寄せているのだ。
ただ思春期の男子学生ともなれば素直に”チョコレート“が欲しいなどとは言えるはずもなくこのような回りくどいやり取りになってしまうものだ。
この校舎に通うのも僅か数日。彼女と何気ない会話を交わすことも僅か数回。
いつまでも素直になれない自分の性格がこの上なく憎く思うのは恐らくこの先も同じなのだろう。
林 私からチョコ貰えるなんて光栄なことでしょ?
○ どうだかね。皆はそわそわしてるんだろうけど。
林 手作りチョコって結構手間が掛かるんだよ。
○ 市販のじゃ駄目なの?
林 んー、気持ちの問題だからね。
○ お返しの頃には卒業か。
林 ちゃんと期待してるからね。
○ まあ大したものは返せないけど。
林 私、スニーカーが欲しいかな。白いやつ。
○ 図々しいな、 考えとく。
卒業までの数週間、本来であれば休講となる。
しかし僕も彼女も勉学に励むような優等生ではなかった為にこの時期でも補講が続いていた。
ただ僕にとっては彼女と顔を合わせるための都合の良い口実なのである。
校舎に響く楽器の演奏、校庭を泥だらけのまま駆け回る野球部員、誰も居ない教室。
残り僅かな学生生活においては青春を謳歌すべきなのだろう。
ただ僕にとっては彼女と過ごす平穏な日々がまさに青春そのものなのである。
流行りの恋愛映画であれば背格好の良い男とヒロインは結ばれるだろうが現実はそうもいかない。
このまま卒業してこのまま片想いを続けていつか忘れる。
なにも望まない代わりになにも失わない。
捻くれた僕の長所であり短所なのだ。
○ 白いスニーカーってどんなのだよ。
林 あれ、何してるの?
○ まだ居たんだ。
林 部活に顔出してた。〇〇は?
○ ん、ぼーっとしてた。
林 なにそれ。一緒に帰ろうよ。
○ うん。
林 部活の後輩にお手紙渡したら泣いて喜んでくれたよ。
○ 手紙?
林 うん、感謝のお手紙。去年の先輩達もやってたから。
○ 律儀だな。考えたこともないや。
林 だからモテないんだよー。
○ 手紙を綴ってモテるなんてどこぞの美少年の話だろ。
林 じゃあ私に書いてみてよ。
○ なんでそうなるんだよ。
林 いいじゃん、ホワイトデーのお返しとしてさ。
○ 白いスニーカーが欲しいんじゃなかったのかよ。
林 面倒くさがらずに書いてみてよ。
○ 下手でも文句言うなよな。
林 〇〇って文句言うけど結局やってくれるよね。
○ おい、面倒くさいと聞こえたぞ。
林 まさか、褒めてるんだよ?
○ 林は明日も補講?
林 うん。〇〇は?
○ 明日も朝からだよ。
林 こんな事になるならちゃんと勉強しておけば良かったね。
○ 少しでも勉強してれば今頃、昼方に起きる自堕落な生活になってたろうな。
林 でも半年前に戻れてもきっと勉強しないだろうね。
○ 一緒にしないでくれよ。
林 どうだかね。でも〇〇頭悪くはないじゃん。
○ やればできるんだよ僕は。
林 なのにやらないよね。
○ まぁやる気があればの話。
林 本当に変わり者だよね。
○ うるさいなぁ。林も大概ってやつだよ。
林 私って変?
○ こんな変わり者と一緒に帰ってる時点で相当だろ。
林 帰り道一緒だし、いいじゃん。〇〇も嬉しいでしょ?
○ 嫌なら1人でそそくさと帰ってるさ。
林 宜しい。
○ 今日は誰かに愛の告白されなかったの?
林 え?
○ ほら、バレンタインだし。
林 バレンタインで告白するのって女の子じゃないの?
○ いや、知らないけど。
林 まあ私モテちゃうからね。
○ さらっと自惚れるなよ。
林 事実じゃん。
○ バレンタインじゃなくても週に1回は校舎裏呼び出されてるもんな。
林 うん、わざわざ行くの面倒なんだよ。
○ 今頃、林に振られた男達は泣いてるぞ。
林 知らなーい。私、好きな人居るし。
○ そうなんだ。初耳だ。
林 うん。言ってないもん。
○ まぁそれくらい居るか。
林 誰か聞かないの?
○ そんな野暮な事聞くかよ。
林 ふーん。
○ なにさ。
林 ふーん。
○ ずばり、聞いて欲しそうな顔してるな。
林 というか好きな人の事、聞くのって野暮なの?
○ なんとなく、そんな気がした。
林 〇〇は、居ないよね好きな人。
○ 恋だの愛だの僕に縁がある訳無いだろ。
林 そっか。まぁそうだよね。
○ うん、じゃあまた明日。
林 うん。
随分と驚いてしまった。
林にも想い人が居た事など微塵も気が付かなかった。
当然に相手はどの様な男か気になった。
しかし年頃の男がその話題に興味津々に食い付けるはずもなかった。
ましてや好きな人の好きな人など聞いてしまえば自分に適う筈もないと現実から宣告されてしまう様に思えて仕方が無かったのである。
今の僕にとって現実を見る事は至極耐え難い事なのである。
そのお陰で林と帰り道を共にして下らない話がで出来ているのだから。
この現実からかけ離れたふわふわとした日常こそが唯一望んだ事なのだ。
なにも望まないからこそ、なにも失わない。
それがたった一つを望んだだけでこの理想の時間が今まさに音を立てて目の前から崩れ落ちようとしている。
さながら由々しき事態なのである。
しかし〇〇は考えた。
今後も毎度の様に林と帰り道を共にすれば僕達は本業である学業こそ怠けていたけれど学生であるからして卒業という最後の催事を迎える事となる。
どの道、高校を卒業すれば帰り道に下らない話をする事も駄菓子屋でアイスキャンディーを二等分する事も義理のチョコレートを受け取る事も〇〇の人生には思い出として過去の産物となるのだ。
そうやって林との思い出に耽っているとやはり想いを込めた手紙を綴るべきではないかと思えて仕方が無くなった。
とは言えバレンタインのお返しは愚か日頃から手紙を綴る程、まめな男では無かったから勝手が分からずに先ず便箋を探し出す事から手を付けた。
そうして最後の文章を書き終えた頃には時計の針は深夜2時を指していた。
たった1枚の便箋に文章を書き連ねる事に2時間程度費やして仕舞う程、不器用極まりない〇〇であるが書き終えた頃には照れ臭さこそあったものの清々しい気分に包まれていた。
○ 後は渡すだけか。案外、緊張するな。
それから手紙を渡すまで幾度か林と帰り道を共にしたが後々、羞恥心に苛まれると思うと何処となくぎこちなくなってしまった。
林 それでさ、結局補講の時間にさぁ
○ 、、、
林 ねぇ聞いてる?
○ え、あー。
林 最近の〇〇って上の空だよね。
○ そんな事もないさ。
林 こんな可愛い子と一緒に帰れるのもあと少しなのに。
○ 自分で言うのかよ。
林 さては、恋でもしていらっしゃる?
○ 、、まさか。
林 え、なに今の間は。
○ 手紙、書いたんだよ。
林 えー本当に書いたんだ。
○ 書けって迫っただろ。
林 半ば冗談めいてたのに。
○ ご冗談、、?
林 半ばね。でも割と嬉しい。
○ 2時間近く掛けた力作なんだよ。
林 頂戴よ。
○ まだホワイトデーは先だろ。
林 いいじゃん。今、欲しいの。
○ いや、心の準備が。
林 なに、心の準備って。ラブレターなの?
○ 、、、
林 え、本気?
○ じゃあこれ。
林 あ、ありがとう。
○ じゃあ、また明日。
林 え、ちょっと。
林の声すら振り切ってそそくさと逃げ仰せてしまった。
気持ち悪がられてしまうのではないか、と脳内に危険信号が駆け巡る。
身体が一気に熱くなって鼓動の一拍ずつが大きく速くなっていくのが分かった。
○ はあ。引かれただろうか。
何度目かも覚えていない程に溜息を吐いて思う。
振られる事は当然見据えた覚悟の上で手紙を綴った。
しかし今更になって後悔と羞恥心に苛まれて仕方が無い。
明日から卒業までの数日、どの様にして林と顔を合わせれば良いのか。
考えれば考える程、溜息は積み重なっていく。
遂に草臥れてしまった〇〇は少し歩こうと考えた。
○ 今頃、林は何を考えているんだろうか。
独りごちた。気付けば近くの小さな公園の前に居た。
徐にブランコを漕ぎながら星を眺める。
そして〇〇は考える事を辞めた。こればかりは成る様にしか成らないとたかを括った。
そうして暫く無心で星を眺めていると着信が入った。
恐る恐る画面を覗くと「林」の文字が浮かんでいる。
もう1つ溜息を吐いて電話を取る。
○ もしもし。
林 もしもし。
○ 、、手紙読んだ?
林 うん、読んだ。ありがとうね。
○ そうか。
林 言ってた通り力作だったね。
○ 2時間近く掛けたからね。
林 返事、欲しい?
○ あのさ。
林 うん?
○ 結果は分かってる。
林 、、、
○ でも卒業までは一緒に帰りたい。
林 、、、
○ 当然、林が気まずくなければだけど。
林 、、、
○ どうだろうか。
林 いいよ、可哀想だから帰ってあげる。
○ 可哀想って。
林 冗談だよ。
○ また冗談か。
林 嫌いじゃないでしょ?
○ うん、林の冗談は、嫌いじゃない。
林 知ってる。
○ じゃあまた明日。
林 うん、また明日ね。おやすみ。
○ おやすみ。
こうして僕は人生18年目の冬の日に初めての失恋を経験した。
当然、悲壮感に包まれたのだが林の優しさが心に沁みて仕方が無かった。
結局、僕に残ったのは彼女のチョコレートと優しい冗談だけだった。
瞳から涙が溢れそうになってもう一度、空を眺める。
滲んで見える星がより一層綺麗であったから僕はきっとこの思い出を忘れる事は無いだろうと、また1つ溜息を吐いた。