覆水、盆に返らず。
「覆水盆に返らず」
これと意味を同じとした言葉をつくれ、というのが次回の講義までの課題として2分前に皺の多い老教授より言い渡された。
このことわざは、1度起きた事は2度と取り返しがつかないと言うもの。つまりは盆から零れ落ちた水は2度と盆へは帰れないのだ。
静かな講義室に小さく反射を繰り返して届く教授の細い声。ただでさえ重たい瞼が余計、重力に逆らう事に躊躇っている。それでも闇雲に白い紙切れに板書を殴り書いていく。
そんな睡眠を促す講義室の後列から3番目の窓側に座る僕は前列の女性に目を向けた。短い髪の身体の小さな僕の眠りを催促するこの声よりも折れそうな、か細い声の人。
その人は遠藤さくらさん。唯一、姓名と顔を把握しているのがその人物だ。僕は陰気でこの古い敷地の中で友人と呼べる人を持っていない。故に女性であろうと男性であろうと姓名や顔を記憶している事は僕の中で珍しい事なのだ。
元来、僕は赤の他人と会話したり共通の空間を共有することを苦手としている。時々、その様な馴れ合いらしい事を過去、散々避けてきた為に本当は作り笑いを浮かべ興味の無い話に適当な相槌を打つことが出来る人間なのでは無いかと錯覚するほどに長らく人と関わっていない。
そのような人間が何故、遠藤さくらを知ることになったのか。遡る事、7日前。
遠 あの…!
〇 はい?
遠 ……
〇 なにか?
遠 どうしていつも独りなんですか?
正直に言えば戸惑いが全てであった。知りもしない女性から声をかけられ予想だにしない質疑が音を立てて僕、目掛けて投げられたのだから。けれど戸惑いこそしたが応えは容易なものであった。
〇 あまり必要としていないから、ですかね
遠 急に失礼なことを聞いてごめんなさい
〇 いえいえ。じゃあ
遠 あの!
〇 はい
遠 私、遠藤さくらです、同じ講義を受けてます。
〇 どうも、〇〇 〇〇です
遠 よろしくお願いします
礼儀作法として相手に名乗られた為に自分の名前を伝えたがよろしくお願いしますと言われる義理もなければ関わるつもりなど微塵もなかったので簡易的に頭を下げ講義室を出た。
それから数時間、何故孤立している人間が気になるのか考えを凝らしていた。恐らくあの類の人間は孤立したり個人の思考で仲間の輪を離れる事をしてこなかったのであろう。故にどうして独りであることを素直に受け入れているのか理解する事が容易くなかったのでは無いか、という事で一時落ち着いた。
その様な奇妙な事があり今日に至る。それからは特に変化の無い長閑な日々を送っていた。そんな事をふと頭の中で考えながら前の席にもう1度目をやると誰かと目が合ってしまった。噂の遠藤さんである。その目線が鬱陶しくなって直ぐに窓側に顔を向けた。
しばらくすると老教授の話を遮って大きな鐘の音が鳴り響いた。鉛筆と紙切れ、外していた黒の腕時計を鞄に押し込んで席を立った。
遠 あの…
〇 はい
遠 この後、時間ありますか?
〇 どうしてですか?
遠 良ければお茶でもしませんか?
〇 僕じゃなくても、よくありませんか?
遠 それは…
〇 冗談です、少しならいいですよ
遠 ありがとうございます!
〇 いえ…
断る文言が咄嗟に思い浮かばずに成り行きでこうなってしまった。長らく誰かと会話をしていない僕が女性とお茶をご一緒することなどこの先も恐らく無いだろう。それに本当はこの前の質疑について、その意図を確かめたいという思いもあったのだ。
遠 急にごめんなさい
〇 いえ
遠 〇 あの
〇 お先にどうぞ
遠 ごめんなさい、この前のことで気になったことがあって
〇 あぁ
遠 〇〇さんこの前の返事で「あまり必要としていないから」って言ったじゃないですか
〇 はい
遠 私、気になってたんです
〇 友達を必要としていない事に、ですか?
遠 違います。「あまり」って所にです
〇 え?
遠 私、〇〇さんが誰かと仲良さそうにしてるのを見た事なくて
〇 まぁ、友達いないので
遠 私はてっきり〇〇さんがそういう仲良しごっこみたいなの拒絶してるんだと思ってたんです
〇 あながち間違ってはないですけどね
遠 それならきっと「あまり」って付けないと思うんです
遠 なのに〇〇さんは「あまり必要ないから」って言ったのには全てを拒絶してる訳じゃないのかなって
〇 それは…
困った。随分と困ってしまった。日本語というものは使い方を間違えるとこうもややこしくなってしまう。本来、「あまり」という言葉に大きな意味など込めてはいないのだ。故に「あまり」に対してその様な意味合いを求められても見当違いも甚だしいことなのである。
〇 そこまで、「あまり」には意味を込めていなくてですね
遠 そうですか…
〇 なんかすみません
遠 いえいえ、全然です!
〇 なら、僕からもいいですか?
遠 はい
〇 どうして急に僕にそのことを聞いたんですか?
遠 本当は私、〇〇さんと同じなんです
〇 どこもかしこも違うと思いますけど
遠 いえ、考え方の話です。私もそういう馴れ合いみたいなの疲れてしまうんです
〇 なら辞めてしまえばいいのに
遠 全てを投げ出す度胸もなくて。だから〇〇さんは怖くないのかなって思って
〇 どちらかと言えばそういう事で疲れてしまう方が僕からすれば怖いので
遠 じゃ、じゃあ…私と友達になりませんか?
〇 話、聞いてました?
遠 そういう馴れ合いとか面倒くさい事は全てなしで、たまに挨拶したり、メールしたりとか…
〇 それって友達って言えるんですか?
遠 言えます!友達の定義なんて当事者同士が認め合えば成立するものです…きっと
〇 分かりました。面倒くさい事は無しで。けれどそれで疲れてしまったり疲れてしまいそうになれば即刻、解消させて下さい
遠 もちろんです!良かった
〇 ではよろしくお願いします
遠 よろしくお願いします
喜ばしそうに頬を赤らめる遠藤さんを見て心がほんの少しだけ温かくなった。その名も分からぬ情には気付かぬふりをして窓の外に目をやった。いや本当は気付かぬふりにすら気づかない様にしていた事に気が付いていた。このままこの女性と友達なる関係になってしまえばこの人を好いてしまう、考えをやめても頭の中で小さな己の声がはっきりと刺さった。
いい言葉を思いついた。
「孤独な我、遠藤さんと友達になる」
講義で課された課題はこの言葉にしよう。訳は1度起きた事は2度と取り返しがつかないと言うものだ。窓の外から目は離さずに無糖の珈琲を1口啜った僕には甘みさえ感じた。