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ボクが書いているのは、日記でもエッセイでもブログでもない。no+eだ!!

no+eを始めて、僕は念願のエッセイストになれた。

ぶっちゃけそう思っていた。

だから、感極まってこんな記事まで書いた。

けど、最近たまたま読んだ記事の中で、プロの人(大手出版社の編集者)が話していたエッセイの定義に照らし合わせると、ボクの記事は、どうやらエッセイではなく、日記に相当するもののようだった。

なぜなら、その人は、

自分のために書くのが日記、他人のために書くのがエッセイ

と明言していたからだ。

なんだかそのまま文字にするとアホっぽく聞こえる発言だけれど、他人の文章を商品としてパッケージして販売してお金を稼ぐことを生業にしている当事者らしい、とてもシンプルで、ある意味、スカッと気持ちのいい考え方だと僕は思った。

ただ、ボクの記事は、確かに自分のために書いているものだけど、その日の出来事だけじゃなくて、いろんな話題を書いているから日記と言い切ってしまうのは、ちょっと違和感を感じてしまったのは本当のところだ。

でも、僕は、ここでエッセイや日記の定義についての自分の持論を展開したいわけでは全くない。

あと、実は自分がエッセイストじゃなかったことにもそんなにショックを受けていない。

むしろ自分が書いているものが、もしかしたらそーゆー既成概念の外にあるものだとしたら、

とそんな可能性を勝手に感じて、内心、ドキドキワクワクしているくらいである。

そして、そんな風に僕が思うのは、おそらく昔から誰かが敷いたレールの上を折り目正しく渡るのが苦手で、気づいたらはみだしていた、そんなタイプの人間だったからかもしれない。

つまり、そんな僕だからこそ、もし自分がここで書いている文章が、まだ名無しの権兵衛な、何か得体の知れない新しいものだとしたら、むしろこれほどときめきトゥナイトなことはないのである。

で、ひょっとしたら本当にそうかもしれない、なんて迂闊にも考えている自分もいる。

というのも、僕が書いているno+eの文章って、その書き方にしろ、書く目的にしろ、従来のそれとは少し趣が異なるような気がしてならないからだ。

例えば、まずその書き方。

僕は、1000字以上の、つぶやきとかではない、比較的、長めの文章を、自宅の書斎でパソコンや万年筆で書く代わりに、電車を待つ駅のホームや中途覚醒した布団の中で、左の親指ひとつ使ってスマホの画面に打刻している。

で、だいたい30分〜1時間くらいで書き上げたそれを、ほとんど推敲しない状態でno+eにアップしている。

その結果、その時々に立ち昇った自分の生々しい考えや思いをかなり鮮度が高い状態で文字に封じ込められていると自負している。

そんな文章の書き方って、何気に新しくないですか?

次に書く目的、理由について

先ほども申し上げたとおり、僕はこのno+eを紛れもなく自分のために書いている。

もちろん自分のためと言っても、自己PRという意味ではない。

その時々の自分の頭に浮かんだ考えや自分の心に刻まれた思いをすばやく言語化し、その言葉の羅列の中に自分がよりよく生きるためのヒントを見出したい

割とその一心のみで書いている。

だから、本当に申し訳ないけれど、そんな僕には人のためになるようなことを書こうという気持ちはさらさらない。

でも、ただの日記とは違うと確信しているのは、それでも「誰かに読まれている」という事実が僕に文章を書かせる大きな推進力になっており、そんな読者の皆様のことを本当に心の底から感謝しているからだ。

当然ながら、こんな自分勝手でわがままで、(読む人が読めば)ちゃんと下手くそで、そして、ここがいちばん重要なところだけど、だからこそ

「作品」(または商品)としては永遠に未完成なボクの文章にはお金のにおいがほとんどしない。

だから、どんなにスキの数が増えたところで、この先もおそらく僕の記事が名だたるコンテストに入賞したり、no+eのおすすめに選ばれることはないだろう。

しかし、とても興味深いのは、そんな商業的価値が皆無な僕の文章を読んだ読者の中に、決して数は多くはないけれど、書き手の自分が全く想像もしなかったような、プライレスな価値を見出す人がいるという事実である。

そして、なんだかんだお金に首根っこを掴まれて身動き出来なくなっている資本主義社会の末期を生きている僕にとっては、むしろその事実こそが、そう

お金や社会的賞賛とは無縁のところで、僕の渾身のストレートをしっかり自分のミットに受け止めて、大きな声で

「ストライク!」

と言ってくれる人たちがいるという事実だけが、

思わず星飛雄馬と番場番みたいにお互いに号泣しながら抱き合いたくなるくらい、

自分の心を激しく揺さぶる体験であり、それは同時に、少なくとも僕にとっては、

ほとんど奇跡みたいな

そして、まるで一陣の爽やかな風に頬を撫でられるような

新しい体験

なのである。

そんな僕の文章は、これからもずっと

途中

なんだと思う。

でも、途中だからこそ、僕は決して立ち止まることなく、流れるように、文章を書き続けることが出来るのだと信じている。

そんな僕の記事は、やはりエッセイでも日記でもブログでもなく、ましてやうっかり「作品」にされかねないような創作でもないのだろう。

しかし、ずっと名無しもどうかと思うので、最後に僕は高らかにこう宣言します。

そう、今、僕が書いているのは、他の何でもなく

no+e

なんだってね。



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