休みの日のこと
とても寒い冬のある日のことだった。
場所は確か新橋か日比谷あたりの小さなギャラリー。
平日ならたくさんのビジネスマンで賑わうその辺りも、休日のその日は、人影もまばらだった。
この時の街の情景を僕が「ほとんど白に近い灰色」としてしか思い出せないのは、その人の少なさのせいもあったろうけど、それ以上に当時の僕の内面がそうさせたところも大きいと思う。
僕が会社を休職したのは、その日からおよそ1か月前のことだった。
休職して以来、一度も家の外に、いや布団の中からすらほとんど出ることが出来なかった僕が意を決して外出したのは、当時、自分が心酔していたSさんの個展が東京で開かれるというニュースを聞いたからだった(熊本在住のSさんの個展が東京で開かれるのは割とレアなケースだった)。
でも、何とか外には出られたものの、このときの僕はそれはそれは弱々しかった。
久しぶりに着た古着のPコートはまるで劇場版キングダムの王騎将軍の甲冑のように重かったし、街中を全身を引きずるようにして移動している間もずっと
「僕なんかが生きてて本当にごめんなさい」
とすれ違う人全てに謝って回りたいような心境だったからね。
そんな僕だから、ようやく辿り着いたギャラリーでも、あのSさんに初対面できたにも関わらず、目すら合わせることが出来ず、部屋の真ん中にある棚の上に重ねられていた彼の大きな絵の数々を、まるでレコードをディグるような感覚で選ぶのにひたすら集中するしかなかった。
そして、夢中になっていた僕がふと顔を上げると、ギャラリーには僕と似たような寡黙で地味なおじさんが7〜8人いて、僕と同じようなポーズで絵を漁っていた。
するとその光景を見たSさんが、
「おじさんたちがこんな風に黙々と何かを漁ってる映像ってなかなか珍しいよなあ・・・」
とニヤニヤしながら、写真を撮っていた。
そう、今回は一般的な絵の個展というよりも、彼がこれまで書き溜めた絵の即売会のようなイベントだった。
Sさんは「言い値でいいよ~」と言ってくれたけど、「最低でも5万円くらいは払いたい」と思って万札を握りしめて来た僕は、自分がいいなと思った絵の前で、ずぅーと悩み続けていた。
おそらく1時間くらいは悩んでいたはずだ。
けれど、結局、
「これから自分は果たしてまともに社会復帰できるのだろうか?」
という将来の不安が勝ってしまって、大金を払う勇気を出せなかった僕は、絵の購入を断念し、代わりに彼が最近出したというCDアルバムを1枚だけ買ったのだった。
そのCDにSさんはその場でサインをして、僕に手渡してくれた。
このとき、僕は初めておそるおそる彼の顔を覗いたのだけれど、なぜだか分からないけれど、Sさんはその僕の視線を躱すように顔を横にそむけたのだった。
今、冷静に振り返ると、それって単なる僕の勘違いかもしれないし、仮に本当に顔をそむけたとしても、そういうシャイなところもかえってあの人らしいなと思えるのだった。
けれど、このとき超絶鬱だった僕は、
「せっかく渾身の力を振り絞って外出したのに、お目当ての絵も買えなければ、Sさんとも満足にコミュニケーションできなかった自分はいったいなんてダメな人間だんだろう・・・」
ともはや家を出る前よりも落ち込んだ気持ちで、とぼとぼと家路を辿ったのだった。
けれど、家に帰って、早速、「アポロン」という名のそのCDをリビングのステレオにかけて聴いたところ、久しぶりの外出ですっかり冷えきっていた自分の体と心がまるでミルクティーでも飲んだみたいに、ゆるやかに、でも確実に温まっていくのを感じた。
そして、この一ヶ月間、まるでロボットみたいに全く喜怒哀楽を表せなかった僕は気づいたら涙を流していた。
そして、その瞳からブワッと溢れ出した液体にほのかに自分の体温を感じとった僕は、このとき初めて
「まだ大丈夫かもしれない」
と思ったのだった。
ただし、この体験が起死回生の特効薬になったわけでは全然なくて、僕が実際に復職するのは、それからさらに2ヶ月後のことだった。
それにしても、今回、なぜこんな季節外れで面白くも何ともないエピソードを僕が書いたかというと、つい先日、発売されたSさんの新刊がきっかけである。
実は本自体はまだ買えていないのだけど、Xの写真でその本の表紙を見た瞬間、僕はあのとき感じた
Sさんの優しさ
と同じものを感じ取ったのだった。
それでふと思い出したというわけ。
本当にただそれだけの話。
そんな自分でもすっかり忘れていた
あの長い長いお休みの日のこと。
でも、思い出せてよかったな
って今、心の底から思っているんだ。