あるエロい小説家の話
この小説を読んでいちばん親近感を抱いたというか身につまされたのは、主人公の男が実は人前で道化を演じているのを同級生に見破られて、その恥ずかしさに身悶えるシーンである。
まあ僕は彼ほど完璧な道化を演じられたわけじゃないけれど・・・。
そう、たとえば、あれは大学4年時にある研究室に所属していたときだった。
その研究室では博士課程、修士課程の先輩も一緒になって互いの親睦を深めるために海や山に遊びに行く習慣があって、普段まったく喋らない、いや喋れなかった僕は、そのどーでもいい時間をやり過ごすのがとにかく苦痛で、いつしかわざと失敗したり、ボケたりしてみんなからからかわれるキャラを演じるようになっていた。
そんなある日、大学の近所の公園をみんなでハイキングしていて、池の上に等間隔に置かれていた丸い石の上を飛び跳ねていたときだった。
僕はわざとバランスを崩して、手を大きく振り回して池に落ちそうなフリをしたのだった。
それを見た周りのみんなは、いつものように大笑いしてくれて、ホッとしながら地面に降り立ったのだけど、その僕に向かって、修士一年のリア充系のカッコいい先輩が
「わざとらしい。全然、笑えねえんだよ。」
とボソリとつぶやいたのだった。
このときの恥ずかしさと恐怖の入り混じった感情は、確かにこの小説の主人公が感じたそれと近しいものだったかもしれない。
しかし、こんな苦虫を一度に100匹くらい噛み潰したような体験をしたにも関わらず、この歳になるまで、人前でどうしても道化を演じずにはいられない自分の性分はなんとも滑稽というか、むしろほとんど自分という人間の
レゾンデートル
とすら思ってしまうほどである。
確かに、道化の効能というのはあるのだけれど。
実際、人前で面白おかしい自分を演じている時だけは、
自分が
空っぽ
でいられるからだ。
だから、このときだけは、本当は恐ろしくて恐ろしくて仕方がない、自分を含めた人間のことをきれいさっぱり忘れ去ることができるのである。
でも、この小説の主人公も僕も、そんな空っぽさ、白々しさにずっと耐えられるほどにはタフじゃないから、そのうちその反動による皺寄せが必ずどっと押し寄せてくるのだった。
そして、僕なんかよりはるかに知的で繊細で女性にMMK※で人間全般に対する罪の意識にちゃんと自覚的な主人公の方が、より皺くちゃな人生を歩んでいって、挙げ句の果てに狂人扱いされて、牢屋みたいな精神病院にぶち込まれるわけだけれど。
※MMK:モテモテコマッチャウの略
まあ、でも、これって決して他人事じゃないよな、と僕みたいな凡夫にも思わせてしまうところがこの小説家が大文豪と言われる所以なのだろう。
そして、自らの剥き身のすっぽんぽんな精神に対してまるで木版に向かう棟方志功ばりに肉薄し、さらにそれを京都有次の刺身包丁で次々と切り身にしていくような余裕のかけらもない切実な筆致は、これぞ文學(ブンガク)という迫力に満ち溢れている。
しかし、ぶっちゃけ文才も読解力もからっきしな僕にとって一番気になるのは、やはりこの世間一般には「エロい小説家」と思われている作者その人自身のことである。
確かこの小説を書き上げて割とすぐのタイミングでこの小説家はある女性と心中して38歳という若さで亡くなってしまうのだけど、彼は本当は死ぬ気はなかった、という説にはなんとなくそうだろうな、と首肯してしまった。
だって、表面的には陰惨でバッドエンドなこの小説の読後感は、いたってさわやかなもので、それこそ
自分(エロい小説家)みたいなダメ人間、それとは真逆にうまく社会の甘い汁を吸って生きている狡猾な連中もひっくるめて、どこまでも醜く愚かで薄汚い人間たちの滑稽さにこそ、この生物の最大の美徳が宿っていると認じ、それを笑い飛ばす
作者自身の高笑い
が聞こえるような気がしたからだ。
そして、そんな風に彼を
人間たちに笑われる道化(哀しげな表情をした路上のピエロ)
から
人間たちを笑い飛ばすトリックスター(高田純次)
に変えた人々が、
彼の人生の中には確かにいたのだ
ということをこの小説の中に僕たちは確かに感じることが出来るから、この
「人間失格」
という作品は、やはり大傑作であり、
少なくとも今年の
no+e創作大賞、ピリカグランプリ、小牧幸助文学賞、第27回みうらじゅん賞
を総嘗めするのは間違いなさそうだ。
なんのはなしですか
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