
Bills族とN.O.T.E族
2階のカフェに向かうエレベーターの扉がほとんど閉まりかけたタイミングで、人影が見えたから、僕は慌ててエレベーターの右側にある丸い開ボタンを押したのだった。
そしたら、Tシャツ姿で髪を短く刈り込んだ色黒で割と体格のいい男性が乗り込んできた。
入ってきたとき、彼は「ありがとう」の一言、いや、会釈すらせずに、エレベーターが開いたときも、何も言わずにいちばん最初に出て行った。
正直、「何やねん、こいつ」と思って少し気分を害したのだけど、この日、息子が林間学校で留守にしていて、久しぶりに妻と2人でのんびり過ごせる休日だから、と普段なら行かないようなそのちょっと高級な2階のカフェの店内装飾(インテリア)がとにかくめちゃくちゃ素敵だということに気づいた瞬間、あっという間に、僕(無類のインテリア好き)の頭の中はバラ色に染まったのだった。
濃いブルーとグレーをベースにしたそのお店のインテリアは、20年前から、そして、20年後も当たり前みたいな顔をしてそこにいるようなどっしりとした存在感を放っていた(こーゆレベルのインテリアにはなかなか巡り会えない)
そして、席に着いて、早速メニューを見ると、やはりどれもそれなりのお値段だったから、いちばん安い飲み物だけにしようかなあと思ったけど、妻から
「せっかく来たんだから、美味しいもの食べようよ」
というありがたいサゼスチョンをいただいたので、結局、僕は名物のパンケーキとブラックコーヒー、彼女はココナッツとマンゴーのゼリーとアイスカフェオレを注文したのだった。
「そう言えば、パンケーキブームの後はアップルパイが来るという君の友達の予想は見事に外れたねえ」
「うん、外れたねえ。でも、パンケーキの後に大流行したスイーツってそもそもないような。セックスアンドザシティで流行ったカップケーキも一瞬で消えたし。」
「うん。確かに。せいぜいドーナツがほそぼそと売れているくらいかなあ。」
なんて我ながら本当に他愛のない話をしてるなあ(笑)
でも、とても贅沢な時間を過ごしているような気持ちにもなっていたから何とも不思議なひとときだった。
あと、アップルパイ推しの友達の話を妻から聞いたのは、それこそ僕が彼女と付き合い始めた15年前の話だから、パンケーキの長期政権ぶりがいかにすごいかが分かる。
そう言えば、この話、表参道で大人気のパンケーキ屋さんの長蛇の列を見てあえなく断念して、すぐ近くの横断歩道を2人で渡ってたときに彼女から言われたんだよなあ。
まるでタイムリープしたみたいにその時の情景が鮮やかに蘇ってきた。
そして、ひとしきり会話を終えて、ふと店内を見渡すと、僕の斜め右前のテーブルに、先ほどの男性が、先に待ち合わせしていたらしい奥さんと2人の小さなお子さんと一緒にランチを食べている姿が目に入った。
ムシャムシャとワイルドにサンドイッチを頬張る彼の姿を見て、きっと僕らにとっては一生に一度くらいしか来ないようなこの特別な空間も、彼にとっては、きっといつもの何気ない日常の一幕に過ぎないのかもな
ふとそんなことを思った。
確かにそんな彼ならば、さっきの僕が召使のエレベーターボーイに見えても仕方ないのかもしれない(笑)
そんな風にちょっと心ここにあらずといった感じになっていた僕に妻が話しかけてきた。
「この前、マックでさあ、女の人がテーブルの上に携帯を置き忘れたまま、お店を出て行ったから、私が慌てて彼女を追いかけてそれを渡しに行ったんだよね。そして、お店に戻ったら、すぐそばに座っていたおばさんに「あんた、偉いわねー」って褒められて、そのときは「そんなの当たり前のことじゃん」って思ったんだけど。」
「でも、後で改めて考えたら、自分の「当たり前」は決して他の人の「当たり前」じゃないのかもしれないって思ったんだよね。だから、周りの人に対してもこれくらい出来て当たり前だっていうふうにあんまり思わないほうがいいのかもしれない。」
「期待するから傷つくのならば、いっそ期待しないでおこうよ。」
彼女のこの言葉が、さっきの彼の態度に気分を害した僕に向けたものであることはすぐに分かった。
僕はこの言葉にいたく感動し、
「えっ!うちの奥さんって、こんな素敵な人だったっけ?」
と少し驚いたのだった(失礼なヤツだなあ)
と同時に僕の頭もかなり冷静に考えられるようになっていた。
だから、彼だって別に悪気があったわけじゃないってことにもちゃんと気づくことが出来た。
うん、ただ大切にしているものがお互いに違うだけの話に過ぎないのだ。
本当にただそれだけの話。
というか今回、アウェイなのはむしろこっちの方だったのかもしれない(笑)
そして、僕にはさりげなくそれを教えてくれる素敵な人がそばにいることにも気づけた。
それだけで、きっと僕にはもう充分すぎるくらい充分なんだろう
そう思って僕は彼女に笑いかけた。
「何なん。急に笑顔になって。キショ!」
と言われた(笑)