クララが立った、チキンもタッタ
高校はいわゆる自転車通学だった。
僕は、片道30分かけて山の麓の田舎町から、住宅街にあるその高校にママチャリをキコキコしながら通っていた。
ちなみに僕がその高校に入るのを決めた理由は、
•自転車で通える距離であること
•内申点でほぼ合格できる見込みがあったこと
•立地が良かったこと(閑静な住宅街。ちなみに先生に勧められた別の高校は風俗街の隣にあるような高校だった)
•塾で気になっていた女の子も進学するかもしれないと思っていたこと
などいろいろあったけれど、
一番の理由はやはり
母親が行って欲しい高校だった
からだと思う。
まだ大阪に引っ越す前から、それこそ小学校の頃から、彼女は、たびたび僕に
その高校から、神戸大学に進学してほしい
という自分の希望(夢)を語っていた。
その高校も神戸大学も単に頭のいい学校というだけじゃなくて、なんだか洗練されたハイカラなイメージがあったから、今思うと、オシャレ好きな母親らしいチョイスだよなあ、とちょっとおかしくなる。
そして、実は、そんな母親の夢を叶えたい、と思ったわけでもなく、彼女のプレッシャーに負けたとかでもなく、ただ単純に僕自身も
なんかそれええやん
と思ったから、
中学2年でその高校のある学区に引っ越してからは、それこそ、その目標を叶えるために、必死に猛勉強した。
そしたら、いつしかその高校よりも偏差値が高い高校=府内No.1の公立進学校への受験を担任に勧められてるくらいの学力を身につけていたけど、僕の決意は揺るがず、初志貫徹で、その高校を受験し、見事、合格を果たした。
当たり前だけど、母親はとても喜んでくれたし、僕もなんだか幸先いいね!と嬉しくなったものだ。
しかし、あれほど憧れていた高校生活は、噛みすぎて味のしなくなったガムみたいに味気ないものだった。
まず最初の中間試験で、完全につまづいてしまった。
いきなり学年一位を取ってしまったことで、目標を見失った僕はまるでタコ糸の切れたタコみたいになってしまった。
けど、当時の僕は極度なタイ人恐怖症で(対人だった)、友達もいなくて他に別にやることもなかったから、引き続きガリ勉街道を邁進していった。
そしたら、成績はずっと学年10位以内をキープするようになった(ちなみに600人中ね)
しかし、今思うと、それもよくなかった。
とにかく目立たないようにと教室の片隅で息を殺すようにしてひっそり過ごしていたのに、その成績が悪目立ちしてしまったせいで、僕のことをからかう同級生たちが現れたからだ。
「よ〜よ〜」と口を尖らせながら彼らは僕の机の前に現れて、うまく人と喋れない僕のことを存分にいじって、ケラケラと笑うのだった。
「おい、ウスノロ、なんか喋ってみろよ」
「おまえ、ガイジだろ(障害児の意味)?」
とか随分なことをさんざん言われたけど、手を出されたことは一度もなかった(さすが進学校、みんな上品だ笑)
そして、彼らはいわゆる分かりやすい不良ではなくて、クラスの中では成績もパッとせず、色気付いてはいるけど女の子には全く相手にされないようなタイプの子たちだった。
そして、みんな医者や社長の息子(御曹司)という共通点があった。彼らはみな高校の近くの高級住宅街の立派な豪邸に住んでいた(そのうちの一人が「うちにはエレベーターがあるんだぜ」と自慢していたのをいまだによく覚えている)
かたや僕はと言えば、野生の猿が住む山の麓に住む貧乏サラリーマンの小倅に過ぎなかったから、そんな彼らに対してどこかで引け目やコンプレックスをずっと感じていた。
彼らも、きっとそんな貧乏人のコミュ障野郎がエリートで勝ち組の血を継承する自分達よりも成績が良かったのが気に食わなかったから、あんなくだらないことをしたんだろうな。
とにかく高2の二学期以降、彼らのそんな笑えないジョークの格好の標的にされたおかげで、僕の自尊感情は日に日にそして、順調に低下していった。
ちなみに試験の成績なんて何の慰めにもならなかった。それどころか、それもまた僕の絶望の種になった。
おそらく勉強に限らず何かをとことんまで突き詰めてやった経験がある人なら分かってくれるかもしれないが、あるところまで行った段階で、僕は
自分は勉強ができない(才能がない)ことにはっきりと気がついてしまったからだ。
でも、当時の僕にはそれしかなかったからしていただけだった。
そして、高2の三学期、ついにあの言葉がそんな僕にとどめを刺す。
「なんでおまえみたいなヤツが生きているんだよ?」
「おまえなんか死んでしまえばいいのに」
その言葉を聞いた瞬間、ショックのあまり、目の前に緑色のうずまきがぐるぐる回り始めて、思わず気絶しそうになった。
おまえなんか死ねばいい、
おまえなんか死ねばいい、
死ねばいい、死ねばいい
きっと何かの聞き間違いだったとそのあと何度も思い込もうとしたけれど、残念ながら間違ってはいなかった。
次の日から、僕は自分の部屋から一歩も出れなくなってしまった。
そして、その鋭い棘のような言葉は、自分ではずっと忘れたふりをしていても、今だに僕の心臓の奥深くにブッ刺さっていて、良くも悪くも僕という人格を形成する大きな核になっていた、という事実に、最近、ようやく気がついた。
例えば、僕がこんなに努力しているにもかかわらず、出世もしてなければ、お金持ちにもなってないのは、もちろん能力がないことも大きいけれど、それに必要な努力を一切してこなかったからでもあると自分では思っている。
だって、僕はあいつらみたいにはなりたくなかったからだ。
あと、僕が、本当は頭が悪いくせに、偉そうに説教を垂れたり、自分の屁理屈やわがままを押しつけて来る権力者たちに対して、怒りと憎しみの業火で自らの肉体を焼き尽くすくらい激怒してしまうのも、どうしてもあいつらのことを思い出してしまうせいだろう。
こんな話、きっと誰も面白くないだろうし、正直、書いている僕が一番しんどい。
でも、これはいわゆる不幸自慢の類では決してない。
他人の同情なんかそれこそ犬も喰わない。
ただただ僕は本気で幸せになりたい、と思っているだけだ。
そう、愛する人たちと一緒に、ね。
そして、今回のような振り返りのイニシエーションはそのために必要な作業だとなんとなく分かっている。
何しろ、ずっと知らんぷりしていたけど、
あのときの僕は、まだひとりぼっちで、心の隅っこの方で泣いていたんだ。
怒りで我を失いそうになるときにだけ、うっすらと彼の存在に気がつくことができた。
そして、彼のことを抱きしめてあげられるのは、他の誰でもなくて、きっと僕自身なのだ。
だから、これから僕はなるべく彼のことを忘れないようにして、ときどき全力で抱きしめることにしよう。
今度こそ怒りで我を失う前に、ちゃんと彼を抱きしめるんだ。
たとえば、こんな思い出と一緒に、ね。
ひとりで自転車に乗って自宅に向かう帰り道
新しく発売されたばかりの話題のチキンタッタがどうしても気になって仕方がなかった僕は、いつもの道を右に曲がって、大きな幹線道路沿いにあるマクドナルドに寄り道をした。
このとき初めて食べたチキンタッタは、バンズがありえないくらいふわふわとしてて、中のチキンも生姜風味のあっさり味でめちゃくちゃ美味しかった。
僕は思わず嬉しくなって、あのハイジの名セリフにあやかって、ひとりで
「チキンがタッタ」
「チキンがタッタ」
というどうしようもないダジャレを呟いていた。
了
この記事は僕の大切な友人が書いたこの素敵な記事にインスパイアされたものです。なんか全然、違うテイストになっちゃったけど(笑)