Keith Haring
Keith Haring展にいってきた。
自ら望んで芸術に触れ,美術館にいくという行動を取るのはじめてのことである。
私は、基本的に、自分は実物を見るよりもその情報,形式知を得て,自分の知的好奇心を満たしていることが多い。
それゆえ,漫画や,小説,などを買うことは多いが,自分の気になっているもの,カルチャーの触れる場に他人が介入している環境はあまりにも慣れていなかった。
しかし,あの空間では,僕の興味のあるアートを他人も興味があることを認識するのに1秒もかからなかったし,隣にいた70歳ぐらいのおっさんや,オシャレな海外のお兄さんとそれを共感できていることを知ることができた。
アートは自分との対話なんていう人がいるが,それは全くの間違いで,作者のメッセージを受け取る、認識するのに精一杯である。
もちろん、一つのアートを見て認識するのは自分だから,自分との対話とも言えるが,作者の圧倒的なメッセージを自分の認識が上回ることがないぐらいにキースヘリングのアートは能動的で読書みたいだった。
Keith Haringは絵を見たことはあるが,その人自体は知らないという状態で見に行った。
彼について特に興味があったということではなく、芸術,アートに触れる機会を得に行ったと言った方が正しい。
しかしながら,やはり,彼の思想に触れる機会であったのだから,そこから得た知見や発見を書くべきだと思う。
まず,彼の思想としては,アートは大衆のものである。人種差別,AIDS,平和への希求と言った一般にアートが内包している思想もしっかりと持っている印象だった。
しかし,他の芸術と違う感覚を感じたのは,ストリート,ポップな絵柄であるために,このメッセージ性に対して,自分の根源的なものをこねくり回して,より自分の根源に近づけるという作業が極端に少ないことである。つまり,自分の根源が整理されており,そのメッセージ性をアートに直接伝えているという印象である。この文章で伝わったかわからないが,ポスターのようなアートが、時間と場所,開催者を明示するように,自分の根源を明確に伝えてくるような印象があった。そうでなければ,枠いっぱいにチン子を埋め尽くす発想にならないと思う。
また,「アートを大衆に」という思想はそのポップさと素人でも書けそうな絵柄から連想することができた。
これは赤色,これは青色といった単色の色で構成されている色の中で,棒人間のやつな簡略化された人間が何かをやっている。しかし,何をやっているのかは想像にまかせるといた特徴を感じた。
最後に、
また,こんなことは言いたくないが,生き様がアートであった。
若くして死んだ人は神格化され、美学されるため,これはとてもフェアじゃないと思うが、
マジでアートだった。
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