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一番古い記憶は2歳半のあの日

人は何歳からの出来事を記憶しているのだろうか。

私の一番古い記憶は、二歳半。
妹が生まれる時のことだ。それ以前はいくら思い出そうとしても何も出てこない。

昼寝なのか朝なのかわからないが、目を覚ましたら母がいなかった。
母を探して台所に行ったらおばさんがいて、母は病院へ行った、という。
そこでそのシーンは終わっている。台所は朝なのか、夕方なのか薄暗く流しの灯りだけがついていたのを覚えている。

次の記憶はたぶんその数日後だと思う。
家族みんなで母の病室に行った。
その時の衝撃を覚えている。

「なんで私のお母さんの隣に赤ちゃんが寝ているの。
やだやだ、どこからきたの? 早く誰か連れて帰って!」

言葉にするとこんな感じだ。

それなのに、姉は喜んで
「わあ、かわいい~。」
なんてのんきなことを言っている。

私はいやでいやでたまらなかった。
母の隣は、わたしの場所だ。今すぐ、どこから来たのかわからないその赤ん坊を寄せて、隣に私が寝たい。
それが正直な気持ちだったが、言えるはずもない。モヤモヤした気持ちを抱えたまま、母の病室を後にした。

ここで問題点をあげるとすれば、私が「母が妊娠していて赤ちゃんを産む」ということに気づいていなかったという点だ。もし、生まれる前から母のお腹を一緒になでなでして、
「赤ちゃん、かわいいね。早く出ておいで~」
とかやっていれば、少しずつ慈しむ心が育ち、こんなに衝撃を受けることはなかったはずだ。そうすれば人生最初の記憶が「嫉妬」という人間の欲深さを表すもの、という恥ずかしめを受けずに済んだのに。なぜ教えてくれなかったのか。なんともうらめしいかぎりだ。

その後の記憶はしばらくないが、母が残してくれた私のアルバムに、
「おもしろくね、と言ってむくれたり、泣いたり、赤ちゃんを叩いたり」と書かれている。
名誉毀損で訴えたい。

この前まで末っ子だったんだぞ。それを、何の前触れもなく奪われたんだぞ。それで、泣いたり叩いたりしてSOSを出しているのに、一生残るアルバムに書くなんて。ひどすぎる。まるで、ひどくわがままなお姉さんみたいじゃないか。

でも、優しいお姉さんの面もあった。自分では、だが…
母と妹と三人で寝ていたころだ。夜中に母がトイレに行っている間に、妹が泣き出した。かわいそうなので、妹を母のところに抱っこして連れて行こうとした。ヨイショ、と抱っこしてベットを降りようとした時、バランスを崩したのか妹が腕からスルリと落ちてしまった。そのまま床に落ちてしまった。高さは50センチくらいだろうか。やばい、どうしよう…。妹が大泣きしたところに、母が戻ってきた。そこで記憶は途切れている。叱られたかどうかは定かではない。
でも、三歳のお姉ちゃんなのだから許してほしい。その頃の妹は関取の朝潮関そっくりのまるまるとした赤ん坊だったのだ。

妹は、兄にも落とされているし、階段から転げ落ちたりもした。そのせいだろうか、兄妹の中で一番勉強ができるようになった。そして、口も達者な利発な子どもに育った。

母は末っ子の妹をすごく甘やかした。姉や私に苦情を言われると決まってこう言った。
「だって、この子は親と一番一緒にいられる時間が短いんだから。」

その言葉の通り、母は妹が小学校四年生の春に亡くなった。兄は高三、姉は高二、私は中一だった。

先日帰国した兄は、母が遠足の時に作ってくれたおにぎりがおいしかった、と言っていた。亡くなってもう五十年近くたつのに覚えていて、久しぶりの日本でその味を求め、いろいろ試したとか。私には残念ながら母が作ってくれたおにぎりの記憶はない。

一緒に過ごした時間、そしてその記憶はある意味宝物なのだ。

四年生だった妹は母のことはほとんど覚えていないと言う。
みんながやきもちを焼くほどかわいがられて、甘やかされていたのに。でも、きっと母から受けた愛情は記憶にはないかもしれないが、ちゃんと心のどこかに残っているはずだ。残っていると信じたい。

人間の記憶は残念ながら曖昧で、消えてしまうこともある。衝撃的なことが起きた時の記憶はなかなか消えないが、日々のちょっとした記憶はすぐに消えていってしまう。でもその何気ない記憶が大切で愛おしかったりする。だから忘れないうちに書き留めておきたい。
これが、私のnoteを書く一つの理由かもしれない。


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