チェスガルテン創世記【2】
第一章――カザド【Ⅰ】――
空が赤く燃えていた。落日はとうに過ぎ去り夜明けの時分にも程遠い。この明るさは、燃え盛る炎がもたらしたものだった。
あちらこちらの家々から火の手はあがっていた。かまどで焚かれた暖かみのあるものではない。芝土で盛り固めた屋根を、なめつくす勢いの業火である。どの家の風除けも用をなさず、赤々とした炎を吐き出すにまかせていた。
そこに暮らすはずの住人達は、あるいは焼け死に、あるいは路上で雪と血にまみれて、弔われることなく転がっていた。
「何故だ」
生者の吐息ひとつ感じられない荒々しい蹄の跡が残るそこを、よろめきながらカザドは呟きをもらした。
「どうしてだ、何故、何があったんだ……」
答える者はいなかった。老人も子供も、全てが物言わぬ死者だった。
何者かの襲撃を受けたのは明らかだった。そして同族同士が殺し合うことが最大の罪である以上、このように徹底した殺戮を行う者はひとつしかない。
「地の民……」
地下の女帝のしもべ。あまねく大地の支配者が、この天の民の楽園に火を放ち踏みにじったのだ。考えれば少しも不思議なことではなかった。この場所が創られたと聞いてから二十年余り、帝国の耳に届くのに充分すぎる時間と言えた。
「誰かいないのか」
すがるような思いで、カザドは声をあげた。火の粉をまき散らす風車を見たときには信じられなかった。もともと、大した望みがあったのではない。けれどもこんな物を目の当たりにするために、この地を目指したわけではなかった。こうしてはるばる、やってきたわけではなかった。
(長はどうした?)
ふと、カザドは思い至った。
どこの集落にも群れにも、率いる者がいる。ここにも、国を築き上げた長がいるはずだった。長の一族がいるはずだ。
かの女神の血を継ぐ娘たちが、地の民を束ねて帝国を支配するように。
(その者達はどうした?)
他の家々よりもぬきんでた高さの風車が、カザドの目に入った。それもごうごうと音をたてて燃え上がっていたが、そのすぐ横に遠目でもそれとわかるほど幅のある長屋があった。もしやと思いカザドは足を逸らせた。予期せぬ襲撃であったとしても、やすやすと長たる者が屈するはずはない。
腰の武器を確かめながら、カザドは外套をひるがえして風のように駆けた。
カザドの駆ける燃え盛るこの地の名を、ヴァナヘイムという。
天空と天上の王君を失った天の民が、この大地に築いた楽園だった。
* * *
カザドほど、平穏と言う言葉が似合わない男はいなかった。確かに世界は平穏とは言えないが――特にほとんどの天の民にとっては――争いとは無縁のまま人生を終えられる幸福な者もいる。
カザドがほかの天の民と同じように慎ましく生きられないのは、彼がすなわち、罪人であるからだった。
カザドは今踏みしめているこのヴァナヘイムよりも、はるか東の地でその生を受けた。父の顔も母の顔も知らず、誰が与えたのかわからない名前だけを持って、年の近い他の天の民たちと共に、奴隷として売られていた。
遥か大昔に起こった神々の争い以来、多くの天の民が隠れて生きていた。地の民に発見されれば最後、その場で殺されるか、奴隷として酷使されるかのどちらかだった。
珍しいことではなく、殺されなかっただけましなのだと当時のカザドは思っていた。
カザドを買ったのは、小太りな地の民の貴族だった。当時の地帝の傍近くに身を置く成金上がりのようだったが、カザドも詳しく知っていたわけではない。
貴族や成金が、どのような意味を持つのか知らなかったというのもあるが、そもそも、その男の顔も名前もとうの昔に忘れてしまった。
覚えているのは、その男が褒められない嗜好の持ち主だったことだ。男は己よりも弱く力の無い者を、いたぶり傷つけることを何より好んだ。それだけではなく見た目の良い天の民ならば、少年であろうと少女であろうと自室に連れ込み、夜伽の相手をさせたのだ。
男のお気に入りは胸糞の悪いことにカザドだった。理由は単純なもので、カザドが天の民の中でも珍しい、青い髪の持ち主だったからだ。さらには目の色が金だった。
天の民の唯一の王であり神、天王ヴィセーレンは、紺碧の髪と、白雲のように抜ける肌、太陽のような黄金の瞳だったと伝わっていた。この組み合わせの体色を持って生まれる天の民は滅多にいない。
地の民の男は彼を寝台で引きよせては、楽しそうに笑うのだった。「天王を抱いているような心地がする」と……
それを聞くたびに、舐めまわすような手つきを体に感じるたびに、カザドは粘るような気分の悪さを感じていた。それが、嫌悪という感情であることも知らなかった。
しかしその行為につき合わされていたのも、カザドが十七になるまでだった。年が明け暖かくなり始めた頃、いつものように寝室に招かれたカザドは、そこで男を殺した。
ことを済ませた男がいつものように無防備に寝転んだ時、ふいにそうしてやろうと思い至った。柔らかくて厚い羊毛の枕が目にとまり、それを男の顔に押しあてた。
男は当然暴れて、腹やら何やらひどく蹴飛ばされたので、カザドは一旦断念せざるを得なかった。それから側にあった剣で、枕の上から男の顔か喉を突きさした。
何度も何度も。
その華美な装飾の剣はいつも抜き身で枕元に飾られていた。男は見事だろうと自慢げに、触らせたこともあった。見た目を大事にしたものなので、切れ味は良くないだろうとも言っていた。
その剣でカザドに殺されることなど、夢にも思っていなかったに違いない。男が動かなくなった頃には、カザドもすっかりへとへとだった。そのまま寝台で寝転がりたかったが、そんなわけにはいかない。
泥のように重い体で寝台を後にすると、カザドは男の屋敷の住人を殺してまわった。男の妻、妾、子供や使用人や護衛。容赦はしなかった。
無礼講と称して酒をふるまっていた日だったからだろう。皆酒に酔い、とてもあっけなかった。
ひどく疲れているのに、冷たい氷の芯でも通したように、頭は澄んでいた。一人、また一人と斬り捨てるたび、冷ややかさは洗練されていくようだった。
男の屋敷には、天の民もいた。カザドと同じ奴隷達で話したこともある。カザドは彼らも殺した。彼らは地の民たちよりも無防備だった。
最初は、彼らを放っておくつもりだった。しかし皆、逃げることも抵抗することもせず、ただぼんやりと血濡れのカザドを見つめていた。哀れな姿だった。
憐憫を凌駕したのは怒りだ。激しい怒りがカザドの身の内から湧きあがり、剣をふるわせた。そうすべきだと言う気がした。
しかしそれでも皆、ぼんやりしていた。最後までそうだった。
カザドはこの世界の成り立ち全てに怒りを覚え、憎悪した。その怒りを糧に、カザドは生き続けた。
地の民からは、即座にお尋ね者として追われる身となった。天の民からはもっとも憎まれる同族殺しとして、どの集落からも突き放された。
カザドにとっては願ってもないことだった。追ってくる地の民は一人として生かすつもりはなかったし、同族殺しをやめようとも思わなかった。
カザドにとってはどちらも殺め、略奪する存在だった。傲慢な地の民も逃げ隠れるばかりの天の民も、どちらも等しく憎悪するべき敵だ。
獣のような生活を続けてしばらくした頃、カザドはある噂を耳にした。どこかに天の民だけの広大な集落が創られたというのだ。そこは生きるに厳しいが地の民の支配が及ばぬ土地であり、季節に合わせて渡り歩く必要が無い。
そこでは毎日のように新しい天の民が産まれ、健やかな若者が育つ。老いた者は皆に見守られながら、穏やかに最後の吐息をもらすことができると。
初め、カザドは信じなかった。絶望にうちひしがれた天の民の下らぬ世迷言だろうと思った。しかしそれ以来、その噂を気にするようになっていた。やがてその地に名前がついていることも知った。
ヴァナヘイム――天への階と。その名に込められた願いに、気づかぬ天の民はいないと思われた。
いつからかカザドは同族殺しをやめていた。時折ヴァナヘイムの名を呟くこともあった。認めるまでに時間がかかったが、彼もまた望みを持ち、失くした楽園に焦がれる一人だった。
その噂を初めて聞いた時から、二十年近くがたった。ヴァナヘイムは遠く隠されており、たどりついたカザドも老いた。
だと言うのに、もはやここは楽園とは呼べないのだった。
【次話】
【小説まとめ】
これまでとこれからと
【こちらでも公開中】
https://ncode.syosetu.com/n0860ht/
【らくがきとか】
ここまでお読みいただきありがとうございました!