チェスガルテン創世記【32】
第六章――鷹と狼【Ⅶ】――
硬い物がひしゃげる音がした。
「フェンリル!」
トルヴァが叫んでいる。強い耳鳴りのせいで、どこか遠くから発せられたような声だった。ボズゥはいつのまにか肘をついていた。
「――う、ぁ」
なにが起きたのかわからなかった。
顔の中心が熱を帯び、視界がぶれてあちこちに星が散っている。やがて鼻の奥から錆臭くぬるい物が伝い、敷かれた毛皮に、そこについた手の甲にと、ぼたぼたと音をたててしたたった。
遅れてやってきた激痛に、殴られたのだと気づく。ぎしりと軋む首を回し、恐る恐る振り返った。フェンリルは顔を仰ぎ見られる直前に、ボズゥの鼻先、顔面のすぐ真横を射ぬくように踏みつけた。
「ひっ――」
「おい。逃げるな」
ボズゥは四つん這いで必死に手足を動かしたが、逃れられるはずもない。たやすくフェンリルに胸ぐらを掴まれ、無理矢理にあおがされる。
ボズゥは両手を眼前に掲げて、あわあわと首を振った。言葉にならない呻き声は水混じりで、鼻にいくつもの細かな血泡を作っている。溺れる人のそれだった。
彼が首を振るたびに、垂れ流しの鼻血が飛沫となってフェンリルの手首に、頬にまでも飛散した。
「馬鹿、やめろ!」
たまらずトルヴァは、フェンリルが再びふり降ろそうとした拳を掴んだ。脇にも腕を回し、ボズゥから引きはがしにかかる。
たやすく指のまわる細い手首の、どこから湧いてくるのか。恐ろしいまでの剛力で、ほんの少しだけボズゥが宙づりに引きずられた。
「いきなりなにをしてんだよ――わけを話せ、わけを!」
「わけ?」
しりもちをついたボズゥは、ようやっとフェンリルを見上げた。天幕の中心で焚かれる火明かりを背に受けて、フェンリルの顔面にはどす黒い影が降り、激昂した眼差しが爛々と危険な輝きを放っていた。
ひどく落ち着きはらった氷の声で、フェンリルは言った。
「おれも知りたい。敵の正体に気づいていて、どうして、全員を危険にさらすようなことをしたのか」
「――は? なに」
突然の暴力に戦き立ちつくしていたヘルガが、聞き捨てならない内容に顔色を変えた。
「どういうこと……。あんた、なにしたの?」
自分に向けられた二人分の視線にさらされて、ボズゥは氷の上に立たされたような心地がした。
「悪いことしたって……スカッとしたかだって? ――他人事みたいにぬかしやがって、てめぇ!」
「うわ――まてまて、まてって!」
火の粉のように爆ぜたフェンリルに、トルヴァは慌てて取り押さえていた腕に力を込めた。獲物を前に全力を尽くす猛獣と同じく、怒りで暴れるフェンリルを取り押さえるのは至難の技だった。
最終的には体格のあるトルヴァが勝利したが、それでも全身全霊をもってかかなければいけなかった。フェンリルもトルヴァも、あっというまに髪と服とが乱れに乱れた。
近くでずっと、ハティが抗議するように吠えたてていた。
「――どういうつもりだった。どうしてあいつらに矢なんか射かけた! ――理由があるなら言ってみろ! 言えよ!」
ボズゥは天幕の隅まで這いつくばり、腕を前に出したままの姿勢で情けなくひいひい泣いていた。
「おれは、おっ、おれは、ただざぁ……」
涙と鼻血とで顔中がぐしゃぐしゃになっても、誰の同情も引くことはできなかった。ボズゥだけが自身の現状を嘆いていた。どうして殴られたのか、何故フェンリルがこうも怒りをぶつけるのか、本気でわからなかった。
すすり泣くボズゥへ向けた剣幕のまま、フェンリルはトルヴァにかみついた。
「トルヴァ――お前は知ってたんだな」
矛先を変えられたトルヴァは、唇を真一文字に引き結んだ。
「知ってて、黙ってたんだな。ダインは――口止めか。――よくも今まで素知らぬ顔ができたな」
彼らを取り囲むようにつむじ風が巻き起こり始めた。
焚火がふいに消え去り灰と燃えカスが舞った。敷かれた毛皮がめくれ、天幕が激しくはためき、天幕の組み木が軋む。
ヘルガは目を開けていられず、両手で顔を覆いしゃがみこんだ。そんな彼女にハティが身を寄せたが、気にしている余裕はなかった。
「――当然だろ。大真面目なんだよこっちは」
吹き荒ぶ風の音に負けぬよう、トルヴァが声を張り上げた。
「なんでおれが黙ってたかなんて、少し考えればわかるだろ!」
「馬鹿かてめえ。わかるかそんなもん!」
「わかれ馬鹿! お前こそ冷静になってまわりを見ろ! 天幕からなにから、全部吹き飛ばすつもりかよ! お前のそれは癇癪だぞ! ――戻ってからずっと、おかしかったよな。どうせじいさん絡みでいらついてんだろ!」
「――なんで、じじいの、話になんだよ!」
カザドの話題で、つむじ風がますます荒っぽくなった。もはや嵐と言ってもよく、軽い日用品――湯飲みや匙などが――宙を舞って踊り出したので、トルヴァは今度こそ肝が冷えた。このままでは組み木すら折られかねない。
トルヴァはとにかく、思いつく限りのことをあらん限りの声でまくしたてた。
「お前をへこませられんのなんて、じいさんだけだからな――。そっちこそ、じいさん子も大概にしろっての! とにかく、落ち着けよ――今チビたちが戻ってきたら、泣いちゃうだろうが!」
奇跡的にも、そのいずれかに響くものがあったらしい。暴風がぴたりと吹きやんだ。
暗闇の中、互いの息づかいだけが聞こえた。火の消えた熾から、白い煙が、天上に向かって細く昇っていくのが見てとれた。
「……もういい。……放せ」
四人が暗さに目が慣れた頃、フェンリルが苦しそうに呟いた。あまりに必死で気づかなかったが、絞め落としかけていたのだった。
トルヴァはすぐさま絡めていた腕を緩めた。解放されたフェンリルは、ぐったりと脱力しきってその場に座り込んだ。
「悪い――夢中でつい」
「……」
フェンリルは無言で首をさすった。息がつまったにしては緩慢な動作に、トルヴァは、ひょっとすると風を操るというのは、体力がいるのかもしれないと考えた。
思い返せばこれまでもそうだった。襲撃で相手を激しく翻弄したあと。女神の戦士との戦いのあと。船の帆を操ったあと……。
フェンリルが感情的になったり、普段よりも繊細に風を操ったあとは、必ずこのようになってはいなかったか。
(でもこれって、操ってるって言えるのか……)
小さな子供が感情に任せて手足を力一杯ふり回すのと、どう違うのだろう。トルヴァはへとへとの頭で、どうでもいいことを考えた。
「ボズゥ」
落ち着きを取り戻したというよりも、疲れきった声でフェンリルは呼びかけた。
「お前、なにがしたかったんだ」
フェンリルの問いかけに、ボズゥは目を泳がせた。
そんなのは決まっている――だが頭をよぎるいずれも、ふさわしくない。どれもこれも、ボズゥの望みからかけ離れていると思えた。
では山峡で、女神の戦士に矢をつがえた時――本当はどうしたかったのだろう?
当たるにせよ、当たらなかったにせよ、相手に自分たちの存在を知らせる行いだったのに。誰に言われるまでもなく、そんなことはわかっていたはずだったのに。
しゃくりあげる喉を励まし、やっとのことでボズゥは言った。
「……トルヴァ、トルヴァが、変にちょっかい出してこなけりゃ、矢だって当たらなかったんだぁ!」
「はぁ?」
引き合いに出されたトルヴァが眉間に皺を寄せた。
「おれは、おれはふざけて構えただけで……だから、トルヴァだって悪いだろぉがぁ。……そもそも、最初にあいつらを発見したのは、ダインだろぉ! あいつが見つけなけりゃ、あんなことになってない……。だから、だからぁ、あいつだって悪いじゃんかぁ! あの場にいた全員に、女神の戦士を呼び込んだ責任があるだろぉがぁ! なのに、なんで、おれだけが責められんだよぉ……」
さめざめと悲しげに泣くボズゥを、トルヴァは唖然として見つめた。
あれだけ大変な思いをして、血が出るほどフェンリルに殴られて――この期に及んで出てきた言葉がこれなのだ。
「お前がやったこと、やっぱり、じいさんにだけは伝えとくんだったな……」
救えない。
そんな思いが、すとんと胸に落ちてきた。
「……お、おれは、ずっと嫌だったぁ」
つっかえながら、ボズゥは更に続けた。
「嫌だった……じいさんが。じいさんの言うこと聞いてばっかのフェンリルがさぁ。トルヴァもヘルガも、チビ共も、こんな生活も……全部、本当は全部嫌だったんだぁ……。それでも、それでもさぁ……一緒にいれば、きっと、いつか、良いことだって起こるって思って……だから……。こないだみたいにさぁ。なのに、なのにさぁ……」
とめどなく溢れる涙をこすり、ボズゥは続けた。
「なんでだよぉ! なぁ、フェンリルぅ? フェンリルだって、あいつらをやっつけたいんだろぉ? じいさんの手前、ずっと、ずうっと、我慢してたんじゃないのかよぉ! おれは、気づいてたぜぇ? だから、フェンリルの為に、あいつらを……。なのに、なんでさぁ……なんでだよぉ……」
フェンリルが自分の望みのまま動いてくれれば、喜んでこちらは手を貸した。ボズゥだって、あんな危険を犯さずに済んだのだ。
ボズゥが悪いのではない。悪いのはボズゥにこんな選択をさせた、彼らの察しの悪さであり――くさくさするものが蔓延る、世の中のほうだった。
「……おれはお前のことを聞いてるんだ、ボズゥ。問題をすり替えるなよ」
フェンリルがため息と共に吐きだした。
「あいつらを呼び寄せたのが、おれの為だったって? お前に、おれのなにがわかるっていうんだ」
つきはなす響きだった――。ボズゥははっと顔を上げて、フェンリルを見た。
「おれになにを期待してるか知らないが、見当違いだ。おれは世の中を変えられるほど、大層な人間じゃない。その逆で……。おれは……おれは、誰かの期待に応えられるような奴じゃない。ボズゥとなんにも変わらない、ただの人間で……どうしようもないガキだよ」
囁きは痛みに満ちていた。ボズゥは、フェンリルが自らに失望する理由を、よく理解していた。だって自分もそうだから。
「フェンリル――」
「――でもお前はこれからも、おれの為だと言っては危険を犯すんだろうな」
フェンリルは自分の懐に手を入れると、服のかくしに入れたままだったものを取り出して、ボズゥの目の前に放り投げた。はずみもなく床に落ちたその小袋は、市にきたはじめにエイナルからみんなへと配られたものだった。
中から硬貨がこぼれ出た。そのうちの一枚がボズゥの手元に転がってきて、くるりと倒れた。
「やるよ」
ボズゥは硬貨とフェンリルを交互に見た。
「ここでは、なにをするにもそれがあったほうが良いんだろう。それを持って、行けよ。ここならお前が気にいるところも……必要な誰かも見つかるだろ」
「フェ、フェンリルぅ」
「期待通りの奴じゃなくて――こんな暮らしに、つきあわせて悪かったな。行きたいところで、やりたいようにしろよ。じいさんには、それとなく伝えておく。――好きにすればいい」
「フェンリルぅ!」
覆いがすべてめくれた天上から差す星明かりのもと、やっとこちらを見たフェンリルの青い目は、自ら光っているかのように鮮烈だった。
その目にもう怒りは宿っていなかった――そのかわり、覆しようのない失意に満ちていた。
ボズゥは、彼がボズゥのすべてを諦めたのだと悟り、血の気が引いた。
「わる、悪かったよぉ……なぁ、本当に、悪かったってぇ……」
震えて訴えたボズゥだったが、フェンリルの態度は変わらなかった。助けを求めてトルヴァに、ヘルガにまで視線をさまよわせたが、彼らの心もとっくに決まっていた。
ボズゥは、越えてはならない一線を越えてしまったのだ――。
それが明らかになった今、それでもなお、自らを省みないボズゥの心を知った今、憐れむに値しなかった。
「……」
長い沈黙だった。
ひとりも身じろぎできずにいるうちに、カザドや大人たちが戻ってきはしないかと、誰かが期待した。しかし誰も戻ってはこなかった。
やがてボズゥが冬眠中の蛙よりも鈍重な動きで、床に散らばった硬貨を一枚一枚、拾い集め始めた。すべて集め終えてしっかり袋の口を塞ぐと、それを持って立ち上がった。
誰も、なにも、言わなかった。トルヴァでさえも、もう、彼を引き留めななかった。
俯き加減にボズゥが天幕を出ていき、少ししてからだった。はじかれたように、ヘルガが駆け出していた。
「――ボズゥ!」
ボズゥはわずかにふり返る素振りをした。たった数歩の距離。だが二度と埋まることはない、恐ろしいまでの隔たりだった。
へルガは叫んだ。
「ボズゥ、なんで、あんたはそうなの?」
地の民の奴隷として命令を上手にこなせず、蹴られたり、鞭打たれたりするたび、ボズゥはいつまでもしくしく泣いて、じっとりとした眼差しでこちらをねめつけてきたものだった。
「なんで、いつもそうやって、誰かが助けてくれると思ってんの? 自分の代わりに誰かが、なんとかしてくれるって。自分は弱いから、なんにも悪くないって。――いつまでそうやって生きてくつもり」
いつも誰かの優しさを待ってばかりの、あの目が嫌だった。
奴隷だった頃、ボズゥはいつだって可哀想な自分に優しくしてくれることを、ヘルガに求めていた。
痛い思いをしているのは、ヘルガとて同じ。助けてほしいのも優しくしてほしいのも、同じだったのに。
なのに同じようにぶたれてるヘルガを見ても、ボズゥは自分だけがこの世で一番可哀想だと信じきっていたし、そんな自分を可愛がっていたし、いかにも憐れにふるまっていた。
そんなボズゥが嫌で、ヘルガは冷たくあしらった。
けして優しくせず、慰めまいとした。ボズゥのように情けなくめそめそして、与えられるかもわからない慈悲を期待するのもやめた。ボズゥのように自らを憐れんで行動できなくなるくらいなら、自分を励ました方がずっと有意義だった。
やがてボズゥはヘルガが期待通りの慰めをくれないと知ると、ヘルガに対して彼女の倍に冷たくなった。
ボズゥは時に地の民の主人と一緒になって、戯れに犬をけしかけては笑った。ならばと、ヘルガも同じようにしてやった。
どちらかが気にいられて、贔屓されていたということはない。二人とも、奴らの体の良い暇つぶし相手で、おもちゃだった。
……本当は共に励まし合い、助け合うこともできたはずだが、二人はそうしなかった。
水と油のように混ざらないまま、互いに反発しあって憎み合うことで活路を見出したのだ。歪んだ、奇妙な絆だった。
「あんたは、馬鹿だよ。なんで自分で、全部台無しにするんだよ。なんで、あるものを大事にしようとしないの。そのままじゃあんた――今に、本当に、ひとりになるのに」
ボズゥは冗談じゃ済まされないことをした。見限られて、追い出されて、当然だ。
なのにどうしてか――ヘルガは初めて、ボズゥに同情していた。
「もうとっくに、ひとりだよぉ……」
闇に解けるような、いじけた声が返ってきた。
「言うことはそれだけなの?」
ボズゥは答えない。
ふり返らず、けれどそれ以上歩みを進めることもなく、そのままじっと――まだ、なにかを期待している。
雄弁な沈黙だった。
何故なのだ。
何故こうも愚かに、自分のやったことを振り返ろうとしないのだ。
何故もっと必死にすがって、許しを乞おうとしないのだ。
話の通じない、あの地の民の主人とは違うのに。
仲間だったんじゃないのか。
今だって仲間だろうに。
これが最後かもしれないのに――
「――あんたのそういうところが、その甘ったれた、いじいじしたところが――あたし、心底大っ嫌い!」
ヘルガの声は怒りで震えた。
こうも話の通じない相手を追いかけて、こんなに声をあげて、爪が喰い込むほど拳を握りしめている。馬鹿みたいだった。
どうしてこんな奴を追いかけてくるのが、自分ひとりだけなのだ。
先程の騒ぎなんて誰も気に留めていないようだった。嘘のようにそこかしこの天幕から、穏やかに談笑する声が聞こえてくる。暖かな灯火が、天幕の天上から漏れ出ている……。
誰にも関わりが無いことなのだと骨身にしみて、一層侘しかった。
ボズゥは憎まれ口ひとつ叩かなかった。それきり、静かにそっと、どことも知れぬ夜の暗闇に紛れていった。
もうなにも届かないのだと、二度とわかりあえないのだと思うと、悔しいやら悲しいやらで、ヘルガの瞼の裏が熱くなった。
友人ではなかった。
むしろその逆で、敵とすら言っていい相手だった。
でもお互いへの怒りで、憎むことで、酷い日をやり過せた。そんなことも確かにあった。
「……馬鹿やろう」
これきりだと思った。
ボズゥの為に泣くのなんて、これきりだ。
――第六章〈了〉――
【次話】
※もう少々お待ち下さい!
【他本編】
これまでとこれからと。
【登場人物のらくがきとか】
思うままに描いてるものたち。
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