チェスガルテン創世記【17】
第四章――襲撃【Ⅲ】――
「はなっ、せっ!」
振りほどこうともがくが、そもそもの体勢が悪くずるずると引きずられてしまう。
仰向けになり頭を起こすと、見張りがトルヴァに馬乗りになっているところだった。足をばたつかせても身を捩っても、なすすべが無い。
「トルヴァぁ!」
どこかでボズゥが叫んでいる。
すると見張りは剣を振り下ろす直前に、祈りのような動作をした。
「――女神の御手よ、とこしえなれ」
それがトルヴァの生死を分けた。
木立の頭上から雪を振り落としながら、灰色の毛玉が降ってきた。
と思ったら、落雪の冷たさを感じる間もなく、トルヴァの顔面にばしゃりと生温かい物がかかる。それは、見張りの喉元から噴き出していた。
見張りが慌てて喉元を押さえるが、口からも鼻からも血が溢れ出して止まらない。ごぼごぼと血泡を吹き目を白黒させている見張りは、もはやすっかり戦意も剣も取り落としていた――
そんな見張りに肩車をしてもらうような体勢で、フェンリルが張り付いていた。
フェンリルは、見張りの喉元を裂いたであろう短剣をくるりと回転させると、相手の耳に突き立てた。
途端に見張りはぐるんと白眼を向き、力なく両腕を落とす。そのままトルヴァに倒れ込んできたが――覆いかぶさる直前で止まった。傾いだ首から、ぼたぼたと血が落ちてくる。
倒れる見張りから素早く飛び下りたフェンリルが、その首根っこを掴んでトルヴァの真横に引きずり倒す。
次に視界に入ってきたのは、情けない顔のボズゥだった。
「おい、大丈夫かぁトルヴァぁ?」
「大丈夫そうに見える゛か?」
返り血を浴びたトルヴァは、大変凄惨な見た目になっていた。
「お前、今日、おれが何回死んだと思う゛……?」
「いいい、いま縄切るからさぁ!」
ボズゥに支えられて身体を起こしたトルヴァは、激しく咳きこんだ。もはや口内の血がどちらの物かわからない。考えたくも無い。
わずかに湯気を昇らせる見張りの死体を一瞥して前を向くと、フェンリルと戦士が睨みあっていた。
戦士たちからすれば襲撃されるのはこれが二度目だ。トルヴァとボズゥを捕らえた際には、逃げるダインに矢を射っていたし、他の仲間の存在を危惧していたはずである。
戦士たちは警戒を高めていた。はた目からすればフェンリルと戦士たちには、悲しいまでに体格の差があった。
戦士は皮の外套に長剣。上背があり、良く鍛えられた大柄な体。一方のフェンリルは小柄で細身で、構えている獲物ときたら短剣だ。
これならまだ、万全状態のトルヴァの方が勝ち目があったように思える。
向こうもそれはわかっているはずだが、身構えたまま動こうとはしない。奇襲とは言え仲間を瞬殺したフェンリルに、警戒を強めていた。
「フェンリルが来たならもう安心だってぇ、なぁ?」
ボズゥは何やら嬉しそうだったが――トルヴァはいち早く異変に気づいた。
足元から短剣を握る指先まで。
フェンリルは、隠しようがないほど震えていた。
はっはっという荒い呼吸音に混じり、かちかちと、火打石を打ち合っているような音が聞こえてくる。それが、フェンリルの口から鳴っているものと気づくのに、それほど時間はかからなかった。
歯の根が合わないほどの、震えなのだ。
「……なんか変だ」
よっぽど急いでいたにしても、妙な雰囲気だった。これまで見たことがない兄貴分の尋常ならざる様子に、トルヴァはボズゥほど楽観的になれなかった。
「――ヴァナヘイム」
やっと絞り出したかのような、消えそうに震える声でフェンリルが囁いた。
「ヴァナヘイム、この言葉に聞き覚えは無いか?」
次の問いかけはもう少し声を張ったものだったが、戦士は答えなかった。
トルヴァとボズゥはどちらからともなく視線を交わし合い、首を振る。二人とも聞き覚えの無い、古い響きを持つ言葉だった。
「ヴァナ、なんとかぁ? どういう意味だぁ?」
「なんだっけな、あんまり聞きとれなかった……」
二人はひそひそと確認し合った。なんにせよ、何かが妙だった。
しかし双方の睨みあいはそれほど長い時間では無かった。
「そうだよな。知るわけないんだ……」
質問に答えず微動だにしない戦士に対し、フェンリルは嘲笑するような、あるいは諦めたような声を漏らした。
そして不意に力を抜き、臨戦態勢を解いてしまった。
「お、おい、フェンリルぅ?」
ボズゥが困惑するのも当然だった。
震えながら俯くフェンリルの様子はまるで、怯えきって戦意喪失してしまった頼りない子供そのものだ。
戦士たちもそう判断したようで一瞬の隙を逃すまいと、雄叫びと共にフェンリルに襲いかかる。
「……次から次へと」
トルヴァはふと、フェンリルの足元がきらきらと細かく渦を巻いているのを見た。
雪が薄く、細かく、削れている。
日の光を吸ったひどく細かな雪は、それはそれはきらきらとして――ロッタが見れば綺麗だとはしゃいだに違いない。
だが、突如フェンリルから立ち昇ったひりつくような気配に、トルヴァは戦慄した。
「蛆みてぇに湧いてきやがって……!」
フェンリルの握る短剣の束が、びきりと嫌な音を立てた。
【次の話】
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