神々しい光が差し込む、女の子のフィギアスケートの場面や一面の雪景色など映像が非常に美しかった。映像美と登場人物の虚う心情が絶妙にマッチしていた。 この作品には吃音と同性愛という二つの大きなファクターが配置されている。成人男性二人が同居している場面が物語の序盤で出てきて、またかよと思った。そして、嫌な予感は的中した。私には同性愛が単に物語のアクセントのためだけの安易な装飾としか思えなかった。映画と同名の楽曲からインスパイアされたのであれば、吃音ともっと正面から向き合って物語
意欲的な作品ではある。選考委員が受賞させたがった気持ちもわかる。冒頭、瞬と杏という姉妹が出てくるのだが、途中でこれはどちらの視点の描写か分からなくなる。これが意図しての表現なら上手いと思う。一つの身体の中に二つの精神が宿るというのは、人間の意識と身体、自己と他者という命題を、ある種一番分かりやすい形で描き出そうとしたのだろうが、結果、発想を超える成果を獲得してはいない気がした。選考委員の川上弘美氏がこんな選評を書いている。 全く同じだが、私も作者は自分の立てた問いに何ら答え
森永さんは日本の三大タブーとして、ジャニーズ性加害問題、財務省のカルト的財政緊縮主義、日本航空123便の墜落事件の3つをあげている。これらの共通点は関係者の多くが知っていながら、マスコミで大々的に取り上げられる事がないということである。ジャニーズ問題をBBCが取り上げて社会問題化した時、各マスコミが白々しいコメントを寄せていたのは記憶に新しい。日本にジャーナリズムなど存在していない事の悲しい証明でもある。日本人というのは集団的不誠実な傾向がある。誰かが言うだろう。大した事はな
https://www.shinchosha.co.jp/book/213027/ 原田マハのリボルバーを読んで、ゴーギャン、ゴッホをもう少し深めたいと思い手にとった。この物語がゴーギャンに着想を得たのは間違いないのだろうが、実際には全く独自の物語であった。本書の扱うテーマは現代人にとって益々、切実なものとなっているだろう。また、グローバル化し、画一化されつつある世界においては、決してたどり着けない夢物語となってしまっている。物語の終盤で、エイブラハムという医師の話が突然出
ほんの少し脳が損傷しただけで、半身が消えてしまったり、性格がガラッと変わったりと、人間というものの存在がいかに紙一重の領域にあるのか。自分が自分であることの奇跡を思い知らされような物語だった。派手な手術シーンも神業を操るドクターも出てこない。だけど理不尽に抗い続ける人間の苦悩、人と人が繋がる喜び、記憶や理性がなくなっても人間に最後に残る愛、心、そんな濃密な人間ドラマを見せてもらった。自分が自分として生きている事の奇跡に思いを馳せる、そんな体験をさせてもらえるドラマだった。
最後までピンとこないというか、カタルシスを感じるとはいかなかった。そもそも、ゴッホもゴーギャンも名前くらいしか知らないというのもあったかもしれない。加えて、ゴッホ視点でもゴーギャン視点でもない、美術史の研究者視点の話では尚更である。私もまた、なぜ?と素朴に問いかけた警官のように、蚊帳の外に置かれっぱなしの物語であった。
とにかくよくできていた。脚本がかなり秀逸だった。思えば息子と一緒に暮らしたいという、極ありふれた願いが発端だったのに、次から次へと不運が重なり、皆が不幸になる結末は救いのない悲劇そのものだった。しかし、その悲劇そのものでしかない物語が見方を変えるとコメディのようにも見えてしまうのが辛い。一つ一つの選択が絶妙に間違えており、ほんの少し違った選択をするだけで結果は全く別のものになっていただろうにと思うが、貧困、障害、老いなど様々な生きにくさの渦中にある彼ら彼女らには結局のところ、
連休中とはいえ、昼の回が満席だった。濱口監督にファンがしっかりついている事が見てとれた。 コロナ後の世界を描いているが、率直に現代人は猫も杓子もここまで心が病んでいるんだということを思い知らされる。これは自分の体感ともズレていない。と同時に、その病みに同居する現代人の思考の浅さ、軽薄さというものも炙り出している。派手ではないが人間存在に向き合った丁寧な物語の運びが感じられる。だからこそ、見た人全員がラストで置き去りにされると思う。そこまで、丁寧に積み上げできた物語の糸が突然
展開自体は結構ベタで、不倫してるんだろうな、死ぬんだろうな、最後は自分が演じるんだろうなという展開はことごとく予想通りだった。 ただ劇中劇の『ワーニャ伯父さん』のセリフと登場人物の心情をリンクさせる部分は非常に巧みだった。 演出家である家福は、役者が辟易するほど本読みをさせ、彼の表現によるとテキストが語りかけてくる状況にまで芝居を昇華させる事を求める。しかし、彼自身が真実を見ようとしていなかった事を妻の不倫相手の一人である高槻に指摘されてしまう。自分自身の知らない物語を不倫
遠藤周作さんにとって神とは何なのか、その答えは神とは働きである。こんなにも神を分かりやすく表現した例はないのではないか。とても腑に落ちた。人間誰しも神の導きによりとしか表現できない状況に遭遇したことがあるだろう。その瞬間、確かに神は存在したと言えるのかもしれない。
人間はどこまで罪に不感になれるのか。最近の政治家を見ているとそう思わざる得ない。そんな政治家の筆頭が萩生田光一氏(2728)なのかもしれない。開き直りという言葉があるが、開き直ってくれるくらいの方がまだ救いがある。彼は開き直る必要すらない。なぜなら、彼にはそもそも何ら恥じるところがないのである。これには恐れ入った。 悪党に悪事の自覚なし。政治は金がかかるのだから、いくらネコババしても足りないようだ。一体何にお金がかかるのか?例えばこうである。 政治には金がかかる。その中身
新聞の受賞を伝える『チャットGPT駆使「5%くらい文章そのまま」』という記事に対して、私は と呟いたが、こちらの発言はお詫びして撤回しなければならない。近年の若手作家の中では言葉への執着は群を抜いている。日々、言葉と向き合っている事が作品から垣間見えた。読みもせずに決めつけで発言してしまった事を深く反省した。独特な世界観にかなり引き込まれた。特に、ザハ案の新国立競技場が実現している世界という設定がゾクっとした。この国の異常さの一端はよく考えればこんなところにも現れていたので
何の予備知識もなく見に行って、物語の中盤あたりで気がついた。あ、これ絶対シリーズものだと。後から知ったが、コミック3巻分の内容だったらしい。シーズン5くらい軽く行きそうなイメージだった。エンタメとして十分面白かった。 ただ、2月3連休明けにふらっと映画を観に行こうとして、シネコンくらいしかない地方都市では他に観たいと思う映画がないというのは何とも物足りない。あるのはアニメかマンガ原作か、アイドルファンの為に作られた甘ったるい映画ばかり。テレビの世界では原作者が作品への傲慢な
本書を読もうと思ったきっかけはNHKの「フランケンシュタインの誘惑 科学史 闇の事件簿」を見た事にある。紙幣の肖像にもなり、立志伝中の人物として有名な野口英世の業績とされるものの殆どが間違いであり、最後は効きもしない自分が開発した黄熱病のワクチンを接種しアフリカに行き、黄熱病に罹って死んだという。終始否定的文脈で野口英世が扱われるこの番組に何も知らなかった私は驚愕し、逆に野口英世という人に興味が湧いた。 野口英世とはいかなる人物であったか、作者後書きが端的に表している。
実は、この映画の原作を私は途中で挫折してしまった。だからこそ、この小説を原作にした映画が公開されると知って見てみたいと思った。見終わった率直な感想は、原作を最後まで読んでない人間が言っても何の説得力もないが、本作は原作の解釈が間違っているのではないかと感じた。本作は最も描かれなければならないものが、すっぽりと抜け落ちているような気がする。やまゆり園の事件をモチーフにしたフィクションとして見ても決定的に欠けているものがある。それは、もの言えぬ障がい者であっても、確かに人として存
鈴木エイト氏は、もちろん殺人を肯定している訳ではないが、山上氏にかなりシンパシーを感じていることがわかる。鈴木エイト氏にとっては山上の犯行は、感情的な短絡的な無計画なものではあってはならず、何年もかけて計画し、その影響を十二分に予測したものでなくてはならないのだ。方法論は全く逆であり、彼を肯定することは、自身の否定にも繋がるリスクがありながら、それでも感情移入せざるを得ない存在なのである。同じような憤りを感じ、世の中を変えようともがき苦しんだ同志でなければならないのだ。 これ