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あほ。。



こんばんは。いきなりタイトルにあほの文字失礼いたします。

2022.8.31の今日昼ごろ私は、等々力にある友人が働いているお店に友人たちと、ランチ(おいしいパフェ)をしていました。

そこで、突然のLINE

開いてみると懐かしい保育園のグループLINEから

((私の通っていた保育園は一学年一クラスしかない小さな園でみんなとても仲が良かった。))


以前、4年前に先生たちとクラスのみんなと集まることがあった(懇親会的な)

もう成人もしたし、また集まって今度はお酒で乾杯🍻するのかなと浮かれ気分でトークをひらいた。



書いてある内容が理解できなかった。
今も信じられない。


幼馴染の友人が亡くなった連絡だった。



その子とは保育園しか同じではなかったが、連絡を取り合う仲だったし、年に1、2回は遊ぶ仲、と
大切な友人の1人だった。

少しヤンちゃ系だったが、根はとても優しかった。友達想いな子(仲間意識の強い子)だった。


身近な人、同い年の人、友人が亡くなるのは初めてのことで
正直、まだ頭の中が整理されてない。

というか、しなくないのだと思う。
認めたくないのだと思う。


だから、

生きていたら
それは、うまくいかないとこと、大なり小なりの壁に
ぶつかるし

生きていたら
嬉しい報告も、悪い報告誰かに伝えられるし、入ってくるし

生きていたら
美味しいものも食べれるし

生きていたら
新しい何かに出会えるのに、、、


と。


生きていることで、「可能性は無限大」なのに



今の私の中には「なんで、?」しか出てこない



人っていつ死ぬかも、わからない。
死ぬ運命だったとは思わないけど、


「死」は誰にでも、生きていたら
遅かれ、早かれ訪れるもの

頭では理解していた。
でも実際に起こってしまうと、「理解したくない」
が強くなる。


その子の思い出を語り合うとか、過去に浸りたいわけじゃない。
その子の分まで生きようって言いたいんじゃない。


ただ
もう 過去に生きるきみにしかあえないのが、私は悲しい。

だから
「どうしてなの?」と私はその子に言いたい。
そして、「あほ。」と言いたい。


そして、
いろんないろんな想いがあるけど

やっぱり最期には

ありがとうって伝えたい。


いま、生きている。
実態がある
このnoteを書いている私。


日常のなかで、当たり前のなかで
「死」が隣を歩いていることを忘れてはいけない

生きるって簡単じゃないから
生きたいと思った今日なのでした。

みなさんもどうか、生きてください。



最期ちゃんとお別れに行くから待っとけ。



#今 #今日#生きる#死ぬ#お別れ#ありがとう


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