自分の能力は無意識にどこででも発揮している

『能力』というと、〜が人よりもできるとか、〜が優れているという考えに至りやすいけれど

よくよく考えてみると

普段、意識していなくてもやってしまっている、出来てしまっているということはないだろうか?

私で言うと、家事やお世話がだいぶ苦手で主婦としては門前払いレベルの能力であるのだが、

人を癒したり、話を聞いてあげる受容力を備えている気がしている(共感力とも似ている)

例えば子供が朝起きてすぐにマシンガントークが始まると、たいていの親であれば「しゃべってないで、準備しなさい!早く支度をしなさい」というはずだが(自分が仕事に行く前であれば尚更)

それが私の場合、子供が一生懸命話そうとしているのだから聞いてあげよう、一緒に喜んだり悲しんだり共感してあげようという気持ちになってしまう

このような気持ちが自然と湧き出る『性格・個性』なのだ

話を聞いてもらえた子供は、たとえ話の8割しか話せなかったとしても、不満もなく、次の『遊び』や『準備』に取り掛かれる

これはその子供の朝から眠いので何もしたくない『やる気の出ない気持ち』を、おしゃべりを通して心の中をスッキリさせ、
『やる気の出てくる気持ち』へと変化させ自然と行動に移すように仕向けている

この家庭での動きはおそらくパート先でも発揮されている

普段から、他のパートの方の愚痴や世間話を率先して聞きに行く姿勢でいる

それは無理矢理な姿勢ではなく、とても自然体で耳を傾けてしまうのだ

そして、共感したり、時には自分の意見を伝えたりして、相手が十分に話せた瞬間を表情や行動などで感じると、心の中が満たされる

人は話したくてしょうがない生き物なのかもしれない

寡黙な人でも、きっと気の許せる相手であれば、何時間でも自分の事について語りたくなるのだろう

だからこそ、どんな話であっても興味を持って聞いてくれる人が存在するというだけで

その人にとっては安心できる心の居場所であり

次の行動へ移すための『やる気』や『自信』、『勇気』へと繋がる

そういえば、大学の頃にゼミの先生が英米文学の教授だったのだが、

普段文学を全く読まない私に対して、5時間ほどゼミ室で文学の話で盛り上がっていたことがある

自分でも興味のそこまでない分野で、そこまで話を聞けたことが驚きだったが、その時の先生のお話が面白くて自然と聞き入ってしまったのだ

ゼミの先生からは『◯◯さんには何か才能があるかもしれないね』、『でもそれが何かは分からない』と言われて、その時にはそれで終わってしまったが(そのまま私の将来やりたいことが見つからない迷路にハマる)

私にはそんな役割というか、能力があるような気がしてならない

どんな『場面』においても、相手から必要とされている(or喜ばれている)事象があるとするならば、

それが自分として、自然に振る舞えている『能力』なのかもしれない









この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?