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#34 あの頃も今も

ゲームセンター(ゲーセン)を見かけなくなって久しい。
スマホゲームやコンシューマー機でのネット対戦が主流の今、その役目はほぼ果たし終えたといってもいいのだろう。

「ゲームセンターって何?」という若い人の為にちょっとだけ説明すると、仄暗くタバコの煙が充満する店内にビデオゲーム筐体がズラーっと並んでいて、その中から好きなビデオゲームを選び、1ゲーム50円とか100円でプレイすことができる施設センターのことである。
昭和とか平成の真ん中辺りまでは、都心では大小差こそあれ、どこの駅前にも1店や2店あったものだった。
それぞれの筐体からはひっきりなしに爆音でゲーム音楽が流れ、その音楽が混ざり合って一層大きな騒音を奏でている。
そんなタバコの煙と騒音という環境の中で、客は黙々とビデオゲームをプレイしている。
今やコンシューマーゲームとアーケードゲームの間に差などないだろうが、ファミコン、スーパーファミコン時代の家庭用ゲームとゲーセンのアーケードゲームとでは、画質や性能に大きな差があったので、ゲーセンで金を払って遊ぶのにも意味があった。
協力して一つの筐体に椅子を並べて遊ぶ者、背中合わせに向かい合った筐体で対戦ゲームをする者。
たまに対戦格闘ゲームで負けた者が筐体を足蹴にしたり、画面を叩いて八つ当たりをしている。
場合によっては、それを発端に小競り合いや喧嘩に発展することもある。
PTAには不良の溜まり場と忌み嫌われている——。

こうしてゲーセンの情景を思い出してみると、騒々しいし空気は悪いし暴力は潜んでいるし、碌でもない場所だと思う。
しかし我々が子供の頃はこんなカオスでも、子供同士の社交場として機能していた側面もあった。
ここまでしたら対戦相手をキレさせるとか、カツアゲされない為の処世術とか、そういったことはゲームセンターから学んだ気がする。

***

ゲームセンターで店番をしている親爺を見て、世の中にはこんな楽な仕事があって、お給料が貰えるなんて羨ましい!と子供心に思っていた。
当時よく通った東急大井町線高架下の『富士』というゲーセンの親爺なんかは、薄暗い店内で読書灯を付けてひたすら文庫本を読んでいた。仕事といえば、両替機やゲーム機のコイン詰まりを直すくらいだった。騒々しいところで本を読むのは苦行だと思うが、ある境地に達すると騒音と騒音が相殺し、無音状態に感じるようになるのかもしれない。

そんな親爺を見ていた所為か、大学進学で京都に来てアルバイトをしようと思った時、真っ先に浮かんだのがゲームセンターの店員だった。
内気な性格とコミュニケーション下手から、なるべく他人と一緒に仕事をすることを避けたかった。
狭いゲーセンだと大概1人体制なので、こぢんまりとしたゲーセンに目星をつけて、アルバイト募集の張り紙がないか探していた。

ある日、原付で今出川通を走っていると、銀閣寺を白川通りより西に行ったところにゲームセンター見つけた。店内を伺うと広すぎもせず狭すぎもせず、ちょうど良い塩梅の広さで、店員は1人体制。おまけにカウンターの奥を見ると、店員用に個室まである。私の理想に近いゲーセンが其処にあった。
しかも入り口の自動ドアにはアルバイト募集の張り紙があり、当時の家と大学の通学路でもあったので、すぐさま電話し、面接を受け、採用してもらった。

環境的には申し分のないバイト先だったが、時給が660円だったのが玉に瑕だった。当時のゲームセンターの時給相場は、750〜800円だったので正直不満だったが、自分のペースで働くことができるのがメリットに感じた。

それにしてもゲームセンターのアルバイトというのは途方もなく暇だった。
定期的に灰皿の吸い殻を片付け、筐体のガラス面やコントローラーをダスターで拭く。たまに客からコインが詰まったとかコントロールボタンが効かないと言われると、ちょっした修理を行った。
うちの店は確か20時になるとお客さんにジュースを振る舞うという謎のサービスがあったので、ホシザキの製氷機で作った氷とコンビニで買ってきたコーラとかスプライトをグラスに注いでストローを挿し、ゲームの邪魔にならないようにコースターを置いて客の横にお給仕すると、あとは締めの掃除をするくらいで大半は暇だった。
勤務時間の約7時間、ただ座って店内を見渡しているだけ。
有線放送の音楽を聞こうにもゲーム音楽がうるさくて仕方なかった。
大井町の『富士』の親爺みたいに文庫本に没頭できれば良いが、いつ社員や社長が集金に来るかわからないし、客に告げ口されるかもしれないろ思うと、おちおちと文字を追うことができなかった。
今みたいにスマホでもあれば、違う過ごし方ができたかもしれない。今だったらnoteの更新でもしているのかな。しかしPHSでは何も出来なかった。

ただ若さを安売りしていただけといってもいい、そんなアルバイトだった。

***

割と真面目に働いていたのと、原付で通っていたのが社長から見て都合が良かったのだろう。
半年もすると、銀閣寺店と呼ばれるこの店以外に、北大路と同志社前と寺町の美松劇場前にあった他の系列店のシフトが手薄な時に、ヘルプに行かされるようになってしまった。

その中でも寺町店と北大路店は2階建てで1階にゲームセンター、2階がレンタルビデオ店という作りだった。
純粋に1人で働きたかった私としては、レンタルビデオ業務で接客要素も増えた上、アルバイトも常時2〜3人体制という、望んでいないものになってしまった。

それでも、1年半〜2年くらいは働いていただろうか。
京都市内を駆けずり回りながら、ビデオを貸し出したり、ゲームの画面を拭いたりしていくうちに、各店にバイト仲間もでき、文字通り広く浅い付き合いをするようになっていた。

でもある時、急に嫌気がさしてバイトを辞めたいと思った。明確な理由があったわけではなかった。このままここにおったらアカン、そう思ったのだと思う。

そんな空気が出ていたのだろうか、いつもなら執拗にシフトを聞いてくる社長が、月の半ばになっても来月はいつ入れるかと私に聞いてこなかった。
何となくそのままにしておいたら、最後には次回のシフトがなくなり、自然とフェードアウトすることになった。辞意を伝えることなく、辞めることになり、なんだか不思議な気分だった。

辞めてから元バイト先に遊びに行くようなことはなかったが、用事があって店の前を通るときなんかは、まだ続いているのかと、好奇心程度に横目で店先の確認ぐらいはしていた。

***

15年くらい前だったろうか、本店の寺町店は細々とプリクラ専門店として営業はしていたものの、それ以外の店はいつしかそれぞれ、不動産屋、飲食店、スポーツジムに様変わりしていた。

先日、元北大路店だった多国籍料理の居酒屋の前を通った時、店内がもぬけの殻になっていることに気付いた。
入り口には、「24年前にこの地で営業させていただきましたが、老朽化や諸事情で退店、移転することにしました」という挨拶の張り紙がしてあった。
老朽化も進んでいることだし、てっきり取り壊されるものだと決めつけていたが、よく見るとテナント募集中とのことだった。どうやら家主はこの建家のまま、もうひと花火打ち上げようと目論んでいるようだ。

久しぶりにかつて1階がゲームセンターで2階がレンタルビデオ屋だった店の入り口の前に立ってみた。
そして、足元の割れたタイルを見た。
すると当時の思い出が鮮明に蘇り、今回のnote記事を投稿することを思い立った。

***

0時に店を閉め、片付けを済まし0時半。
すぐに「お疲れ様でした!」と帰れば良いのに、それができない私は、うだうだ店前でタバコと缶コーヒーを両手に持ちながら、名残り惜しむようにバイト仲間同士でおしゃべりしていた。

結局1時くらいまで居て、解散するのが常だった。
場合によっては、そこから高野の『丸山書店』に行ったり、一乗寺の『ラーメン横綱』にラーメンを食べに行ったり、バイト仲間や常連客の下宿に遊びに行ったりしていた。
表向きは楽しんでいたように見えただろうし、実際それなりに楽しんでいたとは思う。

約30年後
あの時同じ深夜0時過ぎに見た
入り口のタイル
テナント募集中の物件は
雑草が生い茂っていた

30年前、店の鍵を閉める時、いつもこのタイルが視界に入った。
そしてこのタイルを眺めながら、バイト後のこの時間を短縮させて、早く帰れないものかと願っていたことを思い出した。

あの頃も今も、変なところで周り合わせようとする癖は、歳をとってもお人好しのまま、あまり変わってないのかもしれない。

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