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非日常=幸せ、日常=我慢だった日々

就職活動をしていた大学3年生の頃から、仕事=お金のためにするものであり、我慢してこなすものだと無意識に思っていた。

毎日リクルートスーツ着て作り笑いして、形だけの自己分析して、バイトリーダーでしたとか適当にでっちあげて、志望動機とか聞かれても、そんなの分からないっていうか、ないと思っていた。

何十社も受けるのに、全部の会社に志望動機なんてある訳ない。

それ以前に自分が何をしたいかなんて分かってなくて、誰でも知ってるような大きい会社で土日祝日休みで、家の近くに支社があれば良いみたいな条件しか頭にないのに、もっともらしい志望動機を書いたり言ったりしてる自分が滑稽だった。

就職活動の段階で自分に嘘ついて我慢する日々が始まっていたので、就職したらこれがずっと続くのだなと薄らと覚悟していた。

そうして始まった社会人生活は、想像通りのものだった。

泣きたい位やりたくないことの連続だった。研修の時から早く辞めたいと思っていた。

そんな調子だったから、お給料の大半は「パーっと使いたい!」という欲求に任せて、実家暮らしをいいことに、自分へのご褒美という名の浪費に消えることになった。

お給料は悪い方ではなかったし、実家にも甘えていて、甘く恵まれた環境ではあった。

連休は旅行、休日はコンサート、遠征、レストラン、スパ。

OL(死語かな)ってこういうものでしょ?みたいなことを全力で体現していた。

行ってる時はめっちゃ楽しいし、ストレス発散できてる気がする。
この為に働いているのだとも思える。

でも、割とすぐに虚しくなってきた。

なんか...飽きたな...と率直に思った。

なにより、日曜日の夜、月曜日の朝の憂鬱が尋常じゃない。
旅行に行っても、コンサートに行っても、
「明日からまた現実か...」と思うとずっしり心が重くなる。

今思うと、完全に『非日常(旅行、コンサートなど)=幸せ、日常(仕事)=我慢(不幸せ)』という式が出来てしまっていた。

週7日のうち、5日は我慢で2日だけが楽しみ、連休だって1年に数日しかない。人生のほとんどを我慢していることになる。

え、この生活60歳まで続けるの?マジか。
でも、それが普通だから仕方ない...
早く定年退職したい。60歳になるのが待ち遠しい...定年延長とか勘弁してほしいから、それだけは断ろう。

23歳にして、本気でそう思っていた。

今思うと、『幸せ=非日常』という思い込みが、自分を苦しめていたのかもしれない。

非日常に幸せを求める限り、お金の浪費は止まらず、日常は我慢の連続となる。

一瞬だけ夢を見れるけど、すぐに虚しくなる。
非日常のために、日常を送っているのだと自分に言い聞かせるけど、本当にそうなの?日常こそが人生なんじゃないの?という疑問が、時折チラつく。

「あー明日から現実かぁ」
当時、私がよく言ってた言葉。

旅行だろうが、コンサートだろうが仕事だろうが、なにもかも全て現実に決まってる。

お金を使って楽しむことが、単なる現実逃避に過ぎないことを本当は分かっていたのかもしれない。

日常こそが人生。

私がそれに気がつくのには、この後ずいぶん時間を要する。

小さな幸せを見つけようとか、今あるものに感謝しようとか、きれいごとを言うつもりはないんだけど...

とにかく今、38歳の私の人生は非日常ではなく日常にある。
...そうありたい。

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