見出し画像

他者の世界と自分の世界

不安とは、他者との境界が曖昧になったときに生まれるのかもしれないと思った。

というか基本的に人間って他者との境界が曖昧で、それ故の不安がいつもあるのかもしれない。つまり、生まれるというより常にある。
意識的に境界線をしっかりと引かない限りは。

他者の世界には、その時々によって至上命題みたいなものがある気がする。
私の場合、思春期は「容姿至上主義」「偏差値事情主義」の世界、大人になってからは「経済至上主義」の世界にいたのだと思う。

これは、結局のところ資本主義の世を生きることにつながっていたのだろう。
経済至上主義というのは、資本主義とほぼイコールいうかちょっと穿った見方かもしれないけどまぁほぼ同義だとして、容姿至上主義も偏差値至上主義も結局、それらが大人になったらお金をもたらすものだという意識から由来しているような気がする。

で、他者の世界というのは、いわゆる環境とか境遇といわれるものと同義であり、至上命題が私の意思とは関係なく決まっている。

他者の世界での至上命題を、自分の世界においても至上命題にするかどうかは、本来自分で決められる。

決められるはずなのだけど、他者との境界が曖昧になることにより、他者の世界の至上命題が自分の中でも至上命題になってしまう。

そして、不安や苦しみが生まれる。
だって自分で決めてないし、自分が本当に大切だと思っている訳でもないのに、自分の中の至上命題がいつの間にか決まってしまっているから。

これに気がつくのに38年もかかってしまった。
そう考えると、13歳の子にこれを説明するのは非常に困難なことに思える。大人にだって説明するのは難しい。

子供の頃から感覚的に分かっている人もいるのかもしれない。

でも私は、境界線を引くとか以前にそもそも、自分の世界の至上命題を自分で決めて良いということにも気がついていなかったし、他者の世界と自分の世界が曖昧になっていたことにも気が付かなかった。

実際、過去の私のような人間が集まってクラスとか、部署とか会社とか小さい共同体が出来ていると考えると、共同体の中の境界線がほとんどないような状態になって、その世界の至上命題が決まり、それが個人の至上命題となり、子供の頃から感覚的に自分の世界を持っている人は、共同体に馴染めず孤立してしまうのかもしれない。

「世界」と言うとき、2つの意味があると思う。ひとつは、漠然と私たちが生きている「この世全体」を指す時。これは私たちが勝手に広げたり縮めたりできるものではありません。これを客観的世界と呼ぶことにしてみます。
 いっぽう、「自分の世界がある」「二人だけの世界」などという言い方をするときもありますよね。この場合、「世界」の意味するところは、「自分がとらえると決めた範囲」のことだと思います。これを主観的世界とします。
 で、朗報なんですけど、主観的世界のほうは、どうやらその気になれば自分で勝手に大きさを決めていいらしい。

大原扁理著 不安は9割捨てました p167.p168

大原扁理さんの『不安は9割捨てました』の中で、客観的世界、主観的世界という表現があった。これは、私が前述した他者の世界と自分の世界と同じようなことなのかなと思った。

大原さんは下記のように続ける。

自分の感覚を優先するより他人に決めてもらったほうがラクだし〜という考え方もある。でも問題はその他人が、主観的世界をネガティブなルールで生きていたらどうなるかってことなんです。もし、富や権力を支配しないと幸せになれない、とか、子どもが有名大学に行かないと意味がない、とかいうルールを設定している人がいたら、その人は自分ルールの幸せを実現するために必ず他人を利用します。なぜならその設定自体が、他人を利用しないと完結できないようになっているから。
 このとき、自分の主観的世界のルールを他人任せにしている人のほうが、利用しやすいと思う。

大原扁理著 不安は9割捨てました p178

つまり、「他者の世界と自分の世界は別物で、自分の世界の至上命題は自分で決められる」ということを知らず、境界線を引かずに生きていると、いつの間にか知らないうちに、他者の世界に巻き込まれて生きることになるんじゃないかな。

実際、私は36年間くらい他者の世界に巻き込まれまくりながら生きてたし、巻き込まれている自覚すらなかった。

これって結構怖いことだなと思う。

一方で、確かに他人に決めてもらうというのはラクであることは否めない。

他人に巻き込まれながら、ある意味ラクに生きてきた私が、自分の世界の至上命題を自分で決めることにしたら、どうなったのか。

そんなことも書いてみたいなーと思う。

いいなと思ったら応援しよう!