
たましいの救済を求めて第一章第三話
第一章第三話 インテーク
「すみませんけど、よろしくお願いします」
はきはきとした口調で南野は謝り、ぺこりと頭を下げた後、待合室へと向かっていた。
後味の悪い面談だ。捨てられた感は否めない。
麻子は再びこぼれかけた溜息を呑み込んだ。踵を返すと、面談室の戸を閉じる。
面談室は、がらんどうの学校の教室に近い構造だ。
出入り口の正面には腰高の窓。
窓は一日中ブラインドで閉ざされる。
中央には正方形のテーブルが置かれ、出入り口に背を向ける形でクライアントがパイプ椅子に腰かける。
カウンセラーは、クライアントの右斜め横に着席する。
自分の心臓に近い方、つまり左側に人がいると、人は無意識に緊張する。急所を守る危機管理の本能があるからだ。
クライアントに無駄に緊張感を与えないため、カウンセラーは右に着く。
それも正面ではなく、斜めに座る。
出入り口に近い方の人間は、出入り口から遠い方の人間を、敬う気質を持っている。
面談室では上下関係を派生させない配慮が要る。カウンセラーが先生で、クライアントが生徒ではない。
その意を込めて、クライアントの右斜め横に当たるテーブル面に着席する。
正方形のテーブルには、クライアントからもカウンセラーからも見える位置に、時計が置かれているだけだ。白い壁には絵画も何も飾られない。
壁際に、スチール棚があるだけだ。
駒井クリニックの院長の、指針が反映された部屋だった。
音楽を流したり植物を置いたり、絵画を飾るなどすると、クライアントの意識がそれらに『持っていかれる』。院長はその状態を潔しとしていない。
面談中は、程よい緊張感も要するのだ。
麻子は無機質な面談室からスタッフルームに移動した。ここもやはり学校の、職員室に近い造りだ。
向かい合わせに並んだ六卓のうち、一卓のデスクの椅子を引き、腰かける。終えたばかりの南野のカルテを作成する。
合間、合間に、堪えた太息を吐き出した。
すると、院長の駒井が事務室に顔を出し、「ちょっと」と、言って麻子を手招く。
日本の中年男性にしては珍しく、鼻の下にチャップリンのような『ちょび髭』を生やしたダンディーな院長は、常に温和だけれども毅然としている。
精神科医の見本のような医師でもある。
「長澤さん。今日はもう、カウンセリングの予定は入っていなかったよね」
「はい。……と、思いますけれど」
念の為に予約表を確認した。
午後五時三十分に、先ほど終えた南野以降の予約はなかった。
「これから一件、インテークをお願いしたいんだけど、大丈夫かな」
「インテークですか? はい、いいですよ。大丈夫です」
インテークは、初診患者との導入面談。
精神科医であり、院長でもある駒井が問診する前、カウンセラーが院長代わりに、クライアントの職業や家族構成、病歴や、来院した理由などの情報収集を行う面談だ。
この時点では、患者の悩みに深く立ち入ることはない。
通院する必要があるのかどうか。
今後の治療計画の方向性を、一時間ほど相談するだけ。
記入を終えた南野のカルテを駒井に渡し、デスクを離れる。
部屋の壁際に並ぶロッカーから、白衣を出して腕を通し、事務室の出入り口付近に置かれた姿見で、身だしなみをチェックする。
思考と気持ちを切り替える。
ただ、インテークを行った者が、そのクライアントの担当カウンセラーになるとは限らない。
麻子のような臨床心理士だけでなく、主に受付や精算業務を行う看護師も、インテークを担当する。
だが、インテークを行った担当者の印象が、患者の当院に対する印象そのものまでをも左右する。
特に女性としては背が高い。
長身で、目鼻立ちがはっきりしているせいもあり、初対面の人間には『近寄りがたい』『クール』『何でもズケズケ言いそう』など、負の印象を与えやすい。それらの自覚を持っている。
だからメイクは薄くして、ネイルも薄いピンクで血色を良く見せる程度に留めている。
特に眉は優しいアーチ形になるように意識して描いているのだが、ロッカーの鏡で確認すると、眉尻が消えて中途半端になっている。いわゆる公家眉。
麻子はロッカーのバッグから化粧直しのポーチも取り出す。
「インテークの面談は何号室ですか?」
「第一面談室でやってくれる? あと、これ。インテークの問診票」
駒井は麻子にプリントを手渡した。
片手で眉を描きながら、片手でそれを受け取った。「じゃ、頼むね」と言い残し、事務室と続き部屋になっている診察室へと戻って行く。
このクリニックでは受付を済ませた初診者に、氏名や住所や年齢などの基本情報、そして「現在、どんなことでお悩みですか?」「それは、いつ頃からですか?」などの来院理由を、問診票に任意で記入してもらっている。
任意であるため、ほとんど記入されない場合もある。
このクライアントもそちらの方のタイプらしい。名前と携帯番号以外は一切書かれていなかった。氏名欄には仮名手本のような達筆で、羽藤柚希と、書かれている。
たましいの救済を求めて|手塚エマ (note.com)