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たましいの救済を求めて第一章第七話
第一章第七話 溺れるひと
多重人格だとしても、なぜその気づきと自覚が殺人の可能性に繋がるのかは、あえて麻子は訊ねなかった。
インテークでは主訴を確認するだけだ。
その先の話は彼を担当するカウンセラーの領域だ。
「じゃあ、もし、こちらのクリニックに通って診療を受けるとしたら、月に何回ぐらい可能ですか?」
「……一回の診察でかかる診察費って、いくらぐらいになりますか?」
「そうですね。お薬の数や種類にもよりますが、診察だけなら、大体千円ぐらいです。院長の診察以外に、お薬を処方されたり、カウンセリングも受けられるのなら、七千円前後になりますが」
「七千円……」
羽藤は困惑したように呟いた。見開かれた瞳は弱々しく揺れ動き、金額に対する動揺が伝わった。
「あの、……実は、ここに来たことは叔母には言ってなくて」
おずおずと答えた彼は、拳で口元を隠して続ける。
「だから通えるとしても月に……一回。か、二回ぐらい」
「カウンセリングは受けられますか?」
「……それもちょっと考えます」
「わかりました」
保護者に内緒ということは、自分の小遣いで支払うつもりだったのだろう。よほど非常識な金額を渡されてでもいなければ、高校生の小遣いだけでは月に一、二度の通院ですら厳しくなる。
羽藤は口調では平静さを装いながらも、僅かに眉を寄せていた。
もし本当に多重人格障害だとしたら、最低でも週一回はカウンセリングと院長の診察が必要だ。
それでも回復の兆しを見せるまで、少なくとも数年はかかる重篤な心身症。
通院は、保護者でもある叔母の理解を得て、バックアップしてもらわなけれは不可能だ。
だが、羽藤は叔母には内緒にしたい。
それは心配をかけたくないという心遣いかもしれないし、奇異の目で見られたくないという不安や恐れがあるのかもしれない。実際、それらの理由で家族にも通院を隠し通す患者も少なくないのだ。
どちらにしても羽藤の来院は二度とないはずだ。麻子は内心の落胆を隠せずにいた。
「では、今日の面談はこれで終わりますね。お疲れ様でした」
テーブル上の時計を見ると、午後六時五十八分。
カウンセリングは大体四十分から六十分単位で行われるため、時間感覚は身体に染みついている。するべき質問を時間内に全て終えて、麻子はボールペンの芯を収める。
「この後、院長の診療を受けて頂きますので、申し訳ございませんが、待合室でお待ち頂けますか? 順番に看護婦がお呼びしますので」
「わかりました。……あの、ありがとうございました」
麻子が立つと、羽藤もつられるように腰を上げた。
続いていつものように麻子がドアを引き開けて、羽藤が出るのを静かに待つ。
こうして退席を促しても、依存性の高いクライアントは尻が重く、ぐずぐずと話を続けて居座り続けることもある。
しかし、終了なのだと理解すると、紺のダッフルコートと鞄を抱え持ち、ドアまで姿勢正しく歩いて来た。羽藤は麻子と目が合うと、唇の端を引き上げるような微笑みをたたえ、軽い会釈をしたのちに、廊下に出た。
この退室の踏ん切りの良さは、何なのだ。
まるで面談室で起きたこと、話したことには何の関心も抱いていないかのようだ。
麻子が感じた違和感は、とても小さなものだった。
そして短いものだった。
羽藤は患者が集う待合室のソファに座る。
そして、受付を済ませた老婆が空席を探すように待合室を見回した。紳士的な羽藤のことだ。席を立って譲るだろうと麻子は思う。けれども老婆が視界に入っていないかのように、羽藤は虚空を見つめている。
この上もなく優雅な笑みをたたえていた。
それから別の初診患者のインテークが入り、麻子は再び面談室に移動した。
羽藤と同じように六十分の面談を行い、終了後はスタッフルームで面談記録の記入などをしていると、気づいた時には夜の九時近くになっていた。
麻子は向かい合わせに六つ置かれたデスクを離れ、事務室の続き部屋になっている受付スペースに移動した。受付カウンターの内側から待合室を覗いたが、診察時間も過ぎた今、数人が精算を待っているだけだ。
その中に羽藤の姿は見られない。
麻子は軽い喪失感に見舞われながら、事務室に引っ込んだ。
羽藤はこれからどうするのだろう。
院長の診察を受けた結果が気になった。
ちょうどその時、院長室からスタッフルームに入ってきた駒井《こまい》に気づいて呼び止める。
「先生、私がインテークした羽藤さん。どうなりました?」
「ああ、あの子か。あの子ね」
白衣姿の駒井は頷きながら、事務室にある給湯室に移動した。食器棚からキャラクター入りの自分のカップを出している。ご家族が何かの景品で貰ってきたと言っていた、ウサギををモチーフにした女の子向けのキャラクターだ。
「通いたい気持ちはあるみたいだけど、診察料がネックになってるみたいだね」
「やっぱり、そうですよね……」
「でも、まあ、未成年だから。通院するなら保護者の了解は取らないとダメだしね」
駒井は麻子の詰問に淡々とした口調で答える。
「自分で説明するのがしんどかったら、一度保護者を連れて来てって言っておいた。僕から説明するからって」
駒井はコーヒーメーカーに作り置きされたコーヒーをカップに注ぎ、ブラックのまま啜り上げた。
「先生は通院された方がいいと思います?」
「……どうだろうなあ。記憶の混濁はあるみたいだけど、乖離性障害とか、統合失調とまではいかない気もするし。記憶をつかさどる脳の分野の問題なのかもしれないから、一応脳外科の診察も勧めておいたよ」
駒井は手近な事務机にカップを置くと、キッチンの配膳台に常備された菓子入れから、キューブ状のチョコレートと、個別包装された焼き菓子を取り出した。
チョビ髭の似合うダンディーな佇まいながら、甘い物好き男子の駒井が焼き菓子をパクリと頬張る。
そんな駒井を微笑ましく眺めつつ、羽藤は摂食障害の疑いもあったのになと、麻子は顔色を曇らせた。
一度に大量の食糧で胃を際限まで膨らませてから、人差し指を喉の奥に突っ込んでは吐く。全部吐く。
食べるのに吐くという矛盾した行為で、自分は様々な葛藤を人には言えずに抱え込んでいるのだと、暗に周囲に訴えるという心身症だ。
また、食べ物は母親の象徴でもある。従って、摂食障害は母親との何らかの確執が要因だとも言われている。
しかし、麻子はどちらの説にも賛同しない。
胃を膨張させて吐き出すと、みぞおちにある呼吸器官の横隔膜が弛緩する。
吐けば呼吸が楽になる。それを、何らかのタイミングで学習したのだ。
つまり、嘔吐でもしなければ、呼吸もままならないほどの緊張だ。
体の過度な硬直は、過食嘔吐とまではいかなくても、マッサージなどの対処療法で、ある程度までは改善できる。
しかし、心身症はマッサージや内科では治せない。
だが、患者が来院しない限り、自分達はどうすることもできないのだ。
あと数年して彼が成人し、収入を得られるようになったらまた、どこかで有能な精神科医かカウンセラーに出会って欲しいと、祈るより他にない。
今の自分達にはどうすることもできないのだと、麻子は自分にくり返し言い聞かせていた。
しかし、どうにもならないことだとしても、溺れかけている人を発見したのに見捨てるようなやましさが、重く背中にのしかかる。
その夜、勤務を終えた後、麻子はクリニックから程近い、路地添いにある整体院に立ち寄った。美容院や英会話教室などが入っている雑居ビルの一階にあり、壁のLED看板は既に明かりが消されている。
「こんばんは」
軒下の電気も消された薄暗い出入り口のドアを引き開ける。
すると、喫茶店のようなカウベルが、軽やかな音をたて、迎え入れてくれるのだ。
待合室の受付は無人で、真っ暗。
それでも中に入ってドアを閉め、鍵をかけ、出入り口のタタキで靴を脱ぐ。
来客用のスリッパに履き替える。
「おーい、いるのー?」
待合室の奥にある施術室には、天井灯が点いている。
麻子がスリッパの音をパタパタさせて声をかけると、「おう」という男の声が施術室の方から返ってきた。
麻子はコートを脱いで、バッグと一緒に待合室の長椅子に置き、声がした施術室に顔を出す。
「お疲れ」
と、施術台の上で寝そべっていた男が微笑しながら起き上がる。
施術室の天井灯も三分の二は消されていて、男が寝ていた施術台の上だけ、温かみのある光を放つ吊り下げランプが点されていた。
「ごめんね。急に頼んだりして」
「全然大丈夫」
本多圭吾は寝起きの子供のように手の甲で目を擦り、かすれた声で返事をした。
整体師の仕事の時の白い詰襟に白いズボンの施術着ではなく、Vネックのセーターにジーンズという私服であり、プライベートモード全開の、気の抜けた顔で麻子を見た。
顎の張った精悍な輪郭の顔にまっすぐな眉。
目力の強い二重の双眸に高い鼻梁。癖のある黒髪は、寝癖であちこちはねている。髭はファッションではなく、文字通り剃るのが面倒臭いというだけの無精髭だ。
「今日はどうする? 肩? 腰?」
圭吾はさっきまで自分が寝ていた施術台のシーツを整え、壁際の棚から出した不繊布を、顔の位置に広げて敷いた。
麻子は面談の合間の休憩時間に、この本多整体院の院長でもある圭吾に、ラインでマッサージを依頼した。
整体院の営業時間は、受付が午後七時まで。
終了は八時までなのだが、この時間まで待っていてくれた恋人だ。
「ありがとう。今日は背中かな」
麻子は準備された施術台に尻を乗せ、パンツスーツのジャケットと、外したベルトを台の下の籐籠に入れる。
「じゃあ、最初はうつ伏せな」
施術台の脇に立った圭吾の指示通り、施術台の前方の穴に顔を入れて腹這いになる。
その上に薄手の上掛けを被せられ、最初に左の臀部に程良い圧をかけられた。掌の手首近くの丘を用いて、二秒ほどゆっくりじんわり圧した後、麻子が息を吸うタイミングで手を離す。
圭吾の施術は闇雲にツボを押したり、揉み立てたりする、施術者主導の強引さはない。
クライアントの呼吸に合わせて圧す時は圧し、引く時は引く。
圭吾に圧され、息をしっかり吐き切ることができた時、肺は自然に膨らんで、生き返ったように呼吸がゆっくり深くなる。
「背中がめっちゃ、張ってるなあ。なんかあった?」
圭吾が胃の裏を押しながら、気遣わしげに麻子に言った。
今日は特にその辺の張りと凝りが苦しくて、圭吾の施術をねだったのだ。
「……ちょっと今日のクライアントさんはしんどかった、かな。いつもカウンセリングはしんどいけど」
理由は言わずもがなだった。
羽藤に対する自責の念が、瘤のように胃の裏に堅くへばりついている。心が痛みを感じるように、身体が痛みを感じているのだ。
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