たましいの救済を求めて 第六章第七話
第六章第七話 制裁
「これは、ひどいね」
翌日の朝、出勤するなり、麻子は診察室で電源のつかない携帯を駒井に見せた。夕べはソファで考えすぎて疲れ切り、寝落ちした。横倒れに倒れて寝たせいで、首が痛い。
「真夏の酷暑で携帯の内部がヤラれて、故障した話は聞くけどね」
「証拠は何もないんですけど、最後に電話をかけてきたのは、羽藤柚季でした。羽藤の名前を液晶画面で見た途端、携帯が膨張するぐらい熱くなって壊れたんです」
羽藤の担当カウンセラーになった途端、次々怪現象に襲われる。
これは、クライアントとカウンセラーの親睦の意味でのシンクロではない。警告だ。
日菜子が無邪気な顔で打ち明けたラスボスは、日菜子や春人に指示を与
える交代人格。
羽藤のカウンセリングの破綻を望んでいる。
そして、これまでの面談内容も面談室の外での記憶も有している。
それだけに留まらず、麻子の隣にいなければ、知り得ないはずの場面の記憶、たとえば、羽藤柚季の面談に尻込みをした葛藤までをも逐一見ている。
知っている。
「家電店に行ってみたら? もしかしたら素人ではわからない原因が、あるのかもしれないし」
「そうするしかないですよね」
駒井が診察室で、電話番号を羽藤に教えたなどとは、麻子は微塵も疑わない。守秘義務はクライアントに留まらない。
妻と子供に逃げられたDV夫が、その妻の逃避に手を貸したとして逆恨みされ、カウンセラーが殺傷事件に巻き込まれたケースは、いくらでもある。
院内で、カウンセラーと事務員の携帯番号を管理するのは、院長だけだ。
携帯番号を知り得たとしたら、羽藤のインテークの後、圭吾の整体院に立ち寄って、施術を受けていた間、バッグの中から財布を奪われ、勝手に使われた時だろう。携帯もバッグに入れたままだった。
ただ、携帯の破損原因をネットで検索したのだが、真夏の炎天下や真冬のストーブの近くなど、高温になる要因が予測できない破損については例がない。慰め程度に家電店に行ったところで、答えは同じに違いない。
「失礼します」
診察室のドアが二回ノックされ、受付の畑中が入って来た。
盆にのせた湯呑みから、煎茶の香りが漂った。それを駒井の事務机にひとつ、そして少し顔を巡らせてから、応接セットのローテーブルにも、ひとつ置く。それは長澤先生への、気遣いらしい。
「長澤先生、携帯どうされたんですか?」
何事かといった顔つきで、話に入って来ようとした。今は、いちばん避けたい畑中が、興味と冷やかしが混ざったような声を出す。
麻子はそれとなく携帯をバッグに戻し、お茶のお礼を告げるに済ませる。
「畑中さん。これは長澤さんのプライバシーだから」
日本男性にしては珍しく、鼻の下にちょび髭を生やした駒井がきっぱり言い切った。こういう時の駒井は恐い。注意するにしても、表情も柔和で口調も優しい。けれども瞬時に目が据わる。
畑中は眉根をあからさまにキュッと寄せて黙り込む。空盆を手に下げて、診察室を出て行った。
事務員、受付のスタッフも、初来院のクライアントのインテークを行うこともあるせいか、畑中は妙な自負を抱いている。
自分もクライアントを支えている、専門職の一人なのだという自負を。
だから、駒井に門前払いをされたことにも、おそらく納得していない。
そのくせ彼氏募集や結婚を、ちらつかせながら保身に走る。ひと言でいうのなら見栄っ張り。きっと結婚を期にして、寿退社をするのだろうと思っている。
「それで、これからの話なんだけど」
駒井は粛々と麻子を応接セットへ誘った。
自分のお茶の茶卓を持ってローテーブルに移動させ、腰かける。麻子もそれに倣って、駒井の前に座り直した。
畑中の機嫌が悪かろうが良かろうが、我関せずの院長だ。
「長澤さんは、羽藤君のカウンセリングを続けるの?」
「えっ……?」
「担当を変えて欲しいなら、そうするよ?」
麻子は昨夜、圭吾に言って欲しいと願った赦しを駒井に告げられて、返す言葉を失った。駒井は、あの目で射貫いてくる。冴えた刀のような眼で。
「あの……」
麻子は困惑のあまりに声を震わせ、言いよどむ。膝丈のスーツのスカートを、無意識にぎゅっと握り込む。
「それは、私がやっぱり力不足……でという、意味ですか」
「いいや。長澤さんがどうしたいのかを知りたいだけだよ」
間髪入れずに力不足は否定して、駒井は湯呑を持ち上げた。
「僕ねえ。お茶でもコーヒーでも、僕のマグカップで入れてって、いつも頼んでるんだけど」
「あの、いかにも景品って感じの、キャラ入りのですか?」
「うん。僕ねえ、カップは持ち手がないとダメなんだよ」
もう既に冷めかけた湯呑を「まだ熱い」と言い、茶卓にした。猫舌ならぬ猫指だ。
「長澤さんなら自分の限界値がわかるはずだよ。僕はそれを信じている。だから、長澤さんには負担が大きすぎるなら、僕は院長として長澤さんを守らなきゃいけない立場だ」
駒井は上体を前倒しにして、腿の腕に肘を立て、握った両手に顎を乗せた。静かな気迫をたたえた眼をして、麻子の返事を無言で促す。
「……今すぐに、どうこう言うつもりはないけれど」
「いいえ、私、続けます!」
自分が放った大声に、麻子は自分で驚いた。考えるより先に言葉が、思いが、ほとばしる。