たましいの救済を求めて第十一章第六話
第六話 普通じゃない
いつもの第一面談室に通されたのは、主人格の羽藤柚季だ。そして浮かない顔つきだ。
面談の定位置についたあと、三分ほど沈黙していた羽藤の瞬きが激しくなる。麻子は交代人格に入れ替わるのかと、身構えた。
けれども今日は羽藤のままで、おずおずと言い出した。
「先週ぐらいから変な声が頭の中で、するんです」
恥辱を忍ぶようにして、変な声を説明する。
「長澤先生に隠しても無駄だって。先生はもう知ってるからって、言うんです。耳元で囁かれるとか、そういった感じじゃなくて。あの……。なんか。頭の中でする声、みたいな」
「男性ですか? 女性ですか?」
「……男性っていうか。もうちょっと、あの。下の感じの……」
おそらく声は、交代人格のものだろう。男性と言えるほど成熟してはいないなら、彰ではなく、柚季の揺さぶりかもしれない。
「これって、幻聴なんですか?」
「そうですね。それを聞いて、どんな気持ちになりました?」
幻聴かどうかを検証しても意味がない。羽藤は何をカウンセラーに知られていると考えたのかが話の筋だ。羽藤は麻子を上目使いに一瞥した。
打ち明けるべきか、沈黙を通すべきかで迷っている。
警察で、罪の自白をすべきかどうかで逡巡している被疑者のように俯いた。
「僕。最初にエレベーターで先生に会った時、気づいてないといいけどなって思っていました。先生に黙っていたのは、謝ります」
「謝らなくてもいいですよ。ここでは、羽藤さんが話したいことを話す場所です。そのための時間です。話したくないことまで無理に話す必要はないですよ」
人差し指の吐きダコも、見られていたと内なる自分に囁かれ、自分が黙っているよりも、指摘をされずにいる方が、苦しくなっているのだろう。
けれども羞恥の方が勝っている。だから、気持ちを聞いたのだ。
「僕は普通じゃないんですね……」
羽藤は下唇を戦慄かせてから、静かに泣いた。
両手は組んで、腿の上に置かれている。視線は虚空を見つめていた。
頬を伝い流れた涙が胸元に当たり、ほたほたと音を立てている。
涙は、とめどなく流れ続ける。羽藤がひとりで歩んできた、いばらの道に雫の跡を残すかのようにして。
麻子は羽藤の涙の音を聞いていた。
今のこの、静けさだけは守りたい。麻子も伏し目になっていた。かける言葉は何もない。普通じゃないということで、どれほどの孤独を強いられるのかを、知っている。
「僕のこの指、見て下さい」
涙ながらに羽藤が右手を差し出す。ペンだこや、足の指の付け根にできるタコに似た、白濁した大きな塊。
食パンや菓子パンや、うどんやラーメン、スナック菓子といった、吐き出しやすい食べ物を一度に一気に胃に収め、人差し指を喉に突っ込み、わざとえづいてトイレなどに吐いて出す。
過食と拒食をくり返すうち、喉の粘膜に当たる人差し指の一部が硬化し、タコになる。こんなに大きなタコになっても、周囲は気づいていなかった。
友人や叔母の若木に、「それどうしたの?」などと聞かれても、ペンだこだと言い、誤魔化した。
それで周囲は納得をする。そして、それから関心を示さなくなる親しい人たち。
誤魔化しきれる自信の裏に、ひそむ失意に蓋をする。
追及をされずにいるのは、たいして存在価値がないからなのだと、思い込む。
「どうして僕だけ、こうなんですか? 皆、普通に生きているのに、僕だけ知らないうちに女の人とホテルにいたり、友達にケンカふっかけてたり。記憶がないから、本当に、そんなことをしているのかもしれないし」
羽藤の眉が悲壮に歪む。麻子はそっと席を立ち、壁際のスチール棚からティッシュボックスとゴミ箱を持ってきた。
「良かったら、使って」
「……ありがとうございます」
目元を拭うと、半身をねじって左を向き、音を立て過ぎないように洟をかむ。それらのティッシュをごみ箱に入れ、肩で大きく息をつく。
羽藤には、こんな風に泣きたい時には泣くことで、怒りたいなら怒ることで横隔膜の緊張が深くゆるみ、息がしやすくなることを、学んで欲しいと、切に願った。気がついて欲しかった。
「もしも羽藤さんが、過食と拒食をすることで、少しでも息がしやすくなるのなら。ほっとすることが出来るなら、続けもいいんじゃないでしょうか?」
もちろん、いいとは思っていない。
早急にやめさせなければならないことも、わかっている。けれども羽藤の涙を見ていたら、するべきことなど吹っ飛んだ。
羽藤も、ぽかんと麻子を見ている。今すぐにでも止めるようにと、忠言されると予想して来たのだろう。
「そうすることで、あなたが生き延びられるなら。続けてもいいと思いますよ」
「どうして言ってくれないんですか? 先生は。やめろって」
「やめよう、やめようとしなくても、いつかはやらなくなる日が来るからですよ」
食べて吐きたい衝動を、意思の力で抑圧すれば、その分ストレスが増加する。それよりも、自分は壊れているのだと、今ここで口に出して言えたこと。
さらけ出して泣けたこと。どうして自分は普通じゃないのか怒ったことで、吐き出せた何かがあるはずだ。
「やめられるって、何か根拠でもあるんですか?」
「根拠はないです。ですけど、あなたは一人で心療内科に来た人です。勇気があります。私が信頼するのは根拠じゃないです。羽藤さんです」
過食と拒食をやめることが出来る、魔法の杖のようなもの。一瞬にして病が治癒する方法を、羽藤が求めているのがわかる。
多くのクライアントは、時間をかけることに対して、強い疑念を抱きがちだが、回復の道程は直線ではない。
螺旋階段を上るように、状態が良くなったり悪くなったりをくり返す。
たとえ悪化した時も、スタート地点に戻ってしまった訳じゃない。一周してきただけの話だ。けれども一周回って上昇したとも言えるのだ。
麻子が答えている間、羽藤が何の反応もしなくなる。
魂を抜かれたようにぼんやりとして、伏し目がちになった羽藤は、徐々に瞳に光が戻る。そして彼は麻子を見るなり、弾けるような笑顔になる。
「先生! 私の名前、覚えてる?」
片手を顔の近くでひらひらさせる美少女が、唐突に出現した。その朗らかな声の大きさに、麻子は一瞬面食らう。
「忘れる訳ないでしょう? 日菜子ちゃん」
「当たった! 先生。日菜子ね。ずっと話したかったの。今までは、あいつに出るなっていわれたら、出られなかったの。だけど出たいんだったら別に、みたいに言ってきて、びっくりしちゃった。あんなに意地悪だったのに」
交代人格の日菜子は黒髪を耳にかけ、ショートヘアーの美少女になる。ピアスのホールも確認できたが、ピアスをしようとしなかった。
そして、日菜子にとってのあいつが誰をさすのか、言わずもがなで理解した。
どういった心境の変化なのかはわからない。訝しかったが、今は日菜子に向き合う時間だ。
「あのね。日菜子ね。先生に伝えてあげたくなっちゃったの。先生が人差し指のタコのこと、知ってて黙ってるんだって、この人に言ったのは春人なの」
日菜子の話を聞き終えるなり、麻子はえっ? と、首を前に突き出した。この人、のところで日菜子も自分の胸を衝いていた。
「あんなこと、春人が自分で言い出すなんて信じられない。なんで急に春人が言ったの?」
「それは春人さんに聞かないと、私にも、わからない」
「だったら春人に替わろうか」
「替われるの?」
「うん。今日はあいつ、何にも言ってこないから」
拍子抜けするほど、あっさりと応じられ、麻子の方が神妙になる。騒々しい日菜子が口を噤み、半眼になり、瞬きが減る。何かを深く思案してでもいるような、まったくの放心状態でいるような、少しの時間を要してから、ふっと瞳に生気が宿る。
彼は、暗い場所から明るい場所に連れてこられたかのように目を細め、眉を寄せ、周囲に顔を巡らせる。朝になって目覚めたようにも見える顔。
覚醒しきれていない顔。
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