正岡子規について理解を深めた日
7月初めのある日、私は松山市にある「子規記念博物館」を訪れていました。
※冒頭の写真は、正岡子規と夏目漱石が語り合っているところをシルエットにした館内展示のようす。
もともと特に俳句が好きというわけでもなく、たまたま立ちよったというくらいの関心度でした。
「子規記念博物館」に初めて行く
正岡子規は愛媛県松山市出身の俳人、歌人、随筆家。
明治時代を代表する文学者のひとりです。
子規の足跡、偉業をたどれる博物館が松山市の湯築城跡内(道後公園)にあります。
愛媛県全体でそうだったのかはわかりませんが、小学校の頃は授業でよく俳句をつくらされていました。
同世代の九州出身の夫は、そんな経験はなかったと言っています。
この最近の小学校がどうなのかは不明です。
ただ昭和の愛媛では、正岡子規が国語教育にかなりの影響を与えていたのだろうと思っています。
暗いイメージをもっていた自分
子どもの頃、NHK松山でたびたび子規の特番などが放送されていて、この横顔がテレビに映っていたことを思い出します。
子規には、なんとなく暗いイメージを子どもながらにもっていました。
病気で最後は若くして(35歳)亡くなってしまった俳句の人だと知っていたくらい。
子規の特番は、子どもの私にはそれほど面白そうな内容には思えませんでした。
一度もまじめに見たことはなく、俳句にも関心をもつこともなく、この年まで過ごしてきたのです。
写生という表現
この日、初めてこの博物館を訪れて、やっと少し正岡子規の偉大さに触れられたような気がしています。
五七五という短い言葉で、句をよむ。
「写生文」という、あるがままをそのまま表現することをとなえ、見たまま感じるままに書こうという運動を起こした子規。
自分が文章を書く上でも、大事なことを今回たくさん学べたように感じました。
子規と夏目漱石
正岡子規は17歳で東京大学予備門に入学し、のちに夏目漱石と知り合い、仲良くなります。
漱石が松山中学に教員として赴任したときには、一緒に「愚陀仏庵」という下宿に2人で暮らしていたこともあるのだとか。
「愚陀仏(ぐだぶつ)」というのは、漱石が俳句をつくるさいに使っていたペンネームだそうです。
この下宿で2人は52日間いっしょに暮らしたとのこと。
愚陀仏庵の1階には、多くの人が集まり句会もおこなわれていたので、冒頭の影絵のように、俳句について語りあう姿も、たびたび見られたでしょう。
絵が好きだった子規
俳句で写生という姿勢をつらぬいていただけでなく、絵でも写生していたというところを今回の展示で、あらためてよく知りました。
子どもの頃から絵が好きで、体が丈夫なら絵描きになりたいとも思っていたそうです。その死の直前まで、好物の果物や草花、病床から見える水さしやおもちゃなどの水彩画を描いていました。
子規の絵は、かざり気がなくてとても可愛らしく、俳句の写生と共通するものを感じます。博物館の売店で『子規の絵』(松山市立子規記念博物館発行)という冊子と絵はがきを購入しました。
22歳で結核と診断され、29歳で脊椎(せきつい)カリエスに罹ってしまった子規。病とたたかいながら、文学活動や絵を描いて最後まで過ごし、35歳で亡くなります。
体がカリエスにおかされた阿鼻叫喚(あびきょうかん)激痛の毎日について、「愉快」「面白い」「楽しくて楽しくて堪らん」との心境に至っていた、と購入した『子規の絵』の中の解説文にありました。
死の2日前まで、子規の随筆「病牀六尺(びょうしょうろくしゃく)」は新聞『日本』に休まず掲載されたそうです。
博物館を出たあと
実はこの日、松山の弁護士さんに相談に行く用事があり、その途中で子規記念博物館に立ちよりました。
東京に住む姉が父の遺産のことで裁判を起こしたので、そちらを相談のために松山に来ていました。
博物館に入る前は、かなりのケバケバしい気持ちでイライラするわ、悲しいやら怒りがこみ上げてくるわで、相当にメンタルがこわれかけていました。
ところが不思議と、子規の作品とその足跡にふれているうちに、心が安らぎ、気持ちが楽になっていました。
本物の芸術にふれるというのはこういうことなのかもしれない!と心から思ったのです。
これまで、同じ愛媛県出身にもかかわらず、身近に感じすぎてか、関心をよせていなかった正岡子規。
もっと早くにその素晴らしさに気づけば良かったと思います。その反面、この年齢になって、やっと理解できるような器を私がもてたのかもしれません。
▼松山市立子規記念博物館についてはこちら
https://shiki-museum.com/
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