「diabolus ex」第二話
今まで一花の姿をミサで見かけたことは無かった事を疑問に思い、兼続は何の気無しに尋ねてみた。とたん、一花の表情が少し不機嫌な物に変わり、何か拙いことを訊いてしまったのかと兼続は不安を覚えた。
「一花」
少し拗ねたような口調で一花が言った。それを聞き、兼続は名前の呼び方問題を思い出す。本人が名前で呼んで欲しいと希望しているわけだから、特に問題は無いのであろうという結論に辿り着いた。
「い……一花」
良いのだと理解はしていても、意識している女子を名前で呼ぶことに少し羞恥を覚え、兼続は頬を染めながら一花の名を口にした。すぐに、一花は嬉しそうな笑みを返す。
「あーその、なんとかってオヤツ食べる?」
一花の笑みを浮かべた表情から軽く視線を反らし、逸る鼓動を静めようと兼続は別の話題を振る。
「ズッパイングレーゼ?」
「だっけ?」
幼い頃から毎日、父親はオヤツに色々な菓子を作ってくれたが、どれがどういう名前なのか兼続は何一つ理解していなかった。
「イタリアのケーキだよね」
「そうなの?」
「うん」
嬉しそうに答え、一花は足を踏み出した。繋いだ手が引かれ、兼続も歩き出す。
「そうなんだ」
父親は中学を卒業後、兼続が生まれるまでずっとイタリアに居たと言っていた。いつも食卓に並んでいるよく分からない洋食もイタリア料理だったのかと兼続は思った。正直に言って、兼続の中で認識されているイタリア料理はピッツアとパスタだけであった。
嬉しそうにケーキについて語る一花に頷き答えながら、兼続は家路をたどった。
ステンドグラスから入り込む鮮やかな光を背にして備え付けられた質素な十字架を見上げる長身痩躯な男の姿があった。男は、礼拝堂という場所にもっとも相応しい服装であるスータンを身に纏い、胸には質素な十字架を掲げていた。二十代半ばと思われる男は整った顔立ちではあるが、穏やかさは見受けられず神父には似つかわしくない物であった。どちらかといえば、獲物を求める野生動物といった感じである。
背後のドアが開く音がし、男はゆっくりと振り返った。開くドアへと向けられた表情は先ほどまでの物とは違い、穏やかな表情が貼り付けられている。
「あれ?」
礼拝堂に足を踏み入れた兼続は不思議そうにそう言い、男を見つめた。軽く目を擦り、再度男の姿を確認する。男が振り返ったとき、辺りに白い羽根が飛び散ったように見えたのだが、どこにもそのような形跡はなく光の加減で錯覚を見たのかと加熱が葉勝手に納得をした。
「あの……何かご用でしょうか?」
礼拝堂に佇む男の正体が分からず、兼続はとりあえず用件を尋ねてみた。服装から父親の同業者だということはすぐに理解出来た。
「失礼しました。浅井紫苑神父はご在宅でしょうか?」
低い、よく通る舞台映えしそうな声が兼続の耳をくすぐった。
「すみません。父は今不在で……」
そう答える途中で、兼続は先ほど会った父親が言っていた言葉を思い出した。
「あの、すみません。もしかして今日から来られる神父の方でしょうか?」
「はい」
そう答えると男はゆっくりと兼続に近づいてきた。
「日聖琉架と申します。よろしくお願いします」
名乗りながら丁寧に頭を下げた相手に、兼続も慌てて頭を下げる。
「浅井兼続です。父はヒジリさんを迎えに行ったんですけど、入れ違いみたいなのですぐに連絡しますね」
「琉架と呼んでください」
「ルカさん……?」
見るからに年上で、しかも父親の同業者を名前で呼ぶ事に少し抵抗があり、兼続は困った表情を浮かべた。
「すみません。ずっと海外にいたもので、あまり名字で呼ばれる事に慣れていないもので……」
「あ、そうなんですか」
兼続の乏しい海外のイメージには、名前で呼び合う外国人のものがあり、妙に納得をしてしまう。
「すぐに父に連絡しますので、少しお待ちください」
そう琉架に告げると兼続はズボンのポケットから携帯を取り出し、父親の番号を表示した。数度の呼び出し音の後、父親が出たことを確認すると兼続は用件を告げる。
「父はすぐに戻りますので、こちらで休んでいてください」
通話を終えた兼続は、琉架を案内するように礼拝堂のドアへと向かった。琉架はその後を、ゆっくりと追う。
リビングのドアを開けた兼続に向かって、白い毛の固まりと黒い毛の固まりが勢いよく飛びついてきた。それらを受け止めるが勢いがありすぎたために、兼続は後ろに倒れ込み押しつぶされてしまう。
「お前ら重い!」
容赦なく自身にのし掛かる二匹の犬を押しのけ、兼続は立ち上がる。懲りずに、犬たちは兼続の足下に纏わり付く。犬たちを蹴らないように気を付けて足を動かし、兼続はリビングへと踏み入った。
「浅井くん」
心配そうな視線を向けた一花が視界に入り、近づこうとした兼続を止めるかのように、二匹の犬たちはうなり声を上げる。
「お前達、何なんだよ」
一花に警戒を向ける犬たちを落ち着かせ、その場に止まらせると兼続は足を踏み出した。
「ごめん……。あいつら、うるさかった?」
兼続の言葉に、一花は首を横に振って答える。
「浅井くんが出て行った後、ずっとドアの前でおとなしく座っていたから大丈夫よ」
それを聞き、兼続は胸を撫で下ろす。
帰宅すると玄関の鍵が開いており、また父親の不注意だろうと想ったが、今日は一花と一緒のために用心をする事にした。安全を確認したリビングに一花を待たせ、番犬として二匹を置いていった。一通り確認をしている最中、礼拝堂で琉架を見つけた。
「あ」
琉架を放置していたことを思い出し、兼続は慌てて廊下へと向かう。その後を、嬉しそうに二匹の犬が追いかけた。
「すみません」
リビングの前で佇む琉架に、兼続は声をかけた。すぐに追いついた犬たちは、琉架の存在を確認した途端、後ろに耳を寝かせ豊かな毛で覆われた尾を下げ震えだした。
「いえ」
琉架が答え、兼続に向かって足を踏み出すと犬たちは逃げ込むようにリビングの中へと消えていった。犬たちの様子に気が付き、兼続は不思議そうに小首を傾げた。だが、一花の時のように威嚇するわけでもなく、兼続はすぐに気を取り直して琉架をリビングへと案内する。
「カネツグさん」
丁寧に継承を付けて呼ばれ、兼続は足を止めて振り向いた。
「あの、兼続でいいです」
年上の相手に丁寧に名を呼ばれることがこそばゆい感じがして、兼続はそう告げた。
「では、カネツグくんと呼ばせて頂きます。漢字はどのような字ですか?」
一花と向かい合わせに置かれたソファーに案内された琉架は、ゆっくりと腰を降ろしながら尋ねてきた。
「武将の直江兼続と同じです」
何とも説明しやすい名前だと、それだけは父親に感謝していた。
「分かりました」
琉架の返事を聞きながら、兼続はリビングの隅に小さく身を隠すようにしている二匹を見つけ、そちらへと向かった。一花といい、琉架といい、今までどのような相手でも人懐っこかった犬たちの初めての反応に、兼続は首を傾げる。とりあえずこのまま考えていても埒が明かず、犬たちに声をかけリビングの外まで連れて行った。
急いでリビングから離れようとした犬たちはいきなり耳を立て、少し何かを確認するように一定の方向を見つめた後、嬉しそうに走り出した。玄関へともの凄いスピードで向かって行く犬たちを見つめ、兼続は父親が帰宅したことを知る。
「かーくん。ただいまー」
犬たちを引き連れながら現れた父親に、兼続はガクリと肩を落とした。
「おかえり……」
力なく帰宅の挨拶を返した兼続を気にもせず、父親の紫苑はリビングへと入っていった。
「すみません。お待たせしました」
ソファーから立ち上がった琉架と会話を始めた紫苑を確認した兼続は、所在なげにしている一花へと足を向けた。犬たちはリビングの前でおとなしく横になり、室内へ入ろうとはしなかった。
「ごめん……」
ソファーから立ち上がった一花は安堵の表情を浮かべながら首を横に振った。とりあえず、話題を反らすために一花を誘ってしまったが、これからどうしたものかと兼続は悩む。
「そういえば、かーくんの彼女のお名前は?」
いきなり背後から聞こえてきた紫苑の声に、兼続は心臓が飛び出るのではないかというほど驚き、恐る恐る振り向く。
「いや、だから……」
言葉を濁し、兼続は父親を見る。
「梓御一花あずさみいちかです」
紫苑に向かい、軽く頭を下げながら一花が名乗る。
「アズサミイチカちゃん。名前も可愛いし、かーくんには勿体ない彼女だね」
「だから、かーくんって呼ぶな」
ふて腐れたように兼続が紫苑に訴える。
「イチカちゃん。エスプレッソは大丈夫?」
「すみません。苦手です……」
兼続の言葉は無視されて続けられた紫苑の質問に、一花は申し訳なさそうに答えた。
「じゃあ、イチカちゃんはカプチーノで」
そう言い残し、紫苑はキッチンへと向かった。一気に疲れを覚えた兼続は力なくソファーへと腰を降ろす。続いて、一花も兼続のすぐ横に座った。
気まずそうな感じで、リビングに沈黙が漂う。一花と二人だけならまだ何とか出来たかもしれないが、出会ったばかりの琉架を前にして無駄な緊張が兼続を支配していた。だが、すぐに室内にエスプレッソの香りが漂い、兼続の緊張を僅かに解す。エスプレッソマシンが立てる音だけが室内に響き、兼続は早く父親の紫苑が戻ってくることを強く願った。
実際にはたいした時間ではなかったが、兼続にとってはとても長く感じた時間が終わりを告げた。デミタスカップを三つ、コーヒーカップを一つ載せたトレイを手に、紫苑がリビングへと戻ってきたのだ。一花の前にカプチーノが煎れられたカップと、キャラメルシロップが入った小瓶が置かれ、残りは兼続、琉架、空いている席へと置かれる。すぐに紫苑はキッチンへと戻り、続けて人数分のズッパイングレーゼを持ってきた。
「ありがとうございます。いただきます」
目の前に配膳されたケーキに目を輝かせ、一花は嬉しそうに礼を述べる。兼続は、無言でデミタスカップを手に取り口に付けた。横で嬉しそうにケーキを頬張る一花の姿に、話には聞いていたが、本当に女の子は甘い物が大好きなのだと納得した。
静かだった室内に聞き慣れない言語が響きだし、兼続は目の前に座る二人へと視線を向けた。おそらくイタリア語だと想われる二人の会話をBGMにしながら兼続はケーキに手を付け始めた。
企業秘密的な物なのか、二人揃ってその言語で話すのが楽なのか兼続には判断出来なかったが、会話が弾んでいるのだということだけは理解出来た。
暗い室内を、パソコンのモニタが発する光だけが照らしていた。質素な飾り気も何も無いパソコン机に座っている制服姿の一花は、メールに添付されていたファイルを開く。細かい文字で書かれた英文と、アルファベットと数字が並べられた表を見比べる。しばらく画面を見続けた後、納得をしたかのようにファイルを閉じるとパソコンの電源を落とした。
室内を照らす公言が無くなり、窓から入り込む月明かりだけを頼りに一花はベッドへと向かう。安価なパイプベッドに腰を降ろすとそのまま倒れ込むように横に成った。
昼間のよく表情が変わる一花とは違い、今は無表情で宙に視線を向けた様子は壊れた人形のようにも見えた。何か掠れた小さな声で呟きだすが、それは殆ど聞き取れないほどの声量であった。
月明かりに浮かぶ室内は広く、パソコンとモニタが置かれた机とベッド以外は何も見あたらなかった。女の子の部屋とは思えない殺風景な様子に、なぜか今の一花は溶け込んでいた。何か言葉を繰り返す人形のような一花は、昼間との落差があまりにも激しものであった。
やがて呟いていた言葉が止まり、ゆっくりと起き上がると機械的に制服を脱ぎ、クローゼットへとしまう。そのまま手にバスタオルと着替えを取り、部屋を出て行った。