「diabolus ex」第一話


風が吹いた。


 その流れを追うように視線を移した先に、見慣れた制服姿にメガネの少女を見つける。薔薇の垣根を挟み互いの視線が絡まり合ったとたん動きが止まり、手の中にあるホースからは次々と水が流れ落ち、足下の芝生を濡らしていく。それまで纏わり付いていた二匹の大型犬が、慌てて離れていった。

 ゆっくりと少女の口が動き何かを呟いたように思えたが、距離があるためにはっきりとは確認できなかった。興味を惹かれゆっくりと足を踏み出したとたん、遠く背後から声が聞こえ思わず振り返る。すぐに視線を戻したがそこに少女の姿はなかった。

「かーくーん」

 はっきりと聞こえた呼び声に振り返り、不機嫌な表情で相手へ視線を向ける。

かーくんって呼ぶな!」

 目の前に居る白い祭服であるアルバを着た中年男性が不思議そうに小首を傾げた。

「えーだって、兼続って名前、似合ってないし……」
 
兼続と呼ばれた少年は大きなため息を吐きながら肩を落とした。


「似合ってないって、父さんが付けた名前だろ……」


 そう答えながらも、確かに自分の容姿には不似合いな名前だと兼続は思う。少し彫りの深い顔立ちに加え、日に透けるアッシュブラウンの髪に色素の薄い鳶色の瞳は、誰がどう見ても純粋な日本人には見えない物である。


「そうだけどねぇ」


 兼続は父親の言葉を聞きながら、ホースから流れる水を止めに行く。水が止まったとたん、離れていた二匹の犬が戻ってきた。白と黒の対照的な毛並みをした二匹が、嬉しそうに兼続に纏わり付く。


「ほら、お父さん子供の頃は名前で苦労したから、せめて子供にはまともな名前をって思ったんだけどねぇ」


 確かに、父親の名前と比べれば自分の名前は凄くまともな物だと兼続は思う。


「お父さんとかーくんの名前が逆だったら良かったのにねぇ」


 嫌、それは勘弁して欲しいと兼続は心の中で呟いた。


「そんなことより、そろそろ時間だろ?」


 これ以上、名前の話題に触れたくなくて兼続は話題を変える。


「ああ、そうだった。それで呼びに来たんだった」


「じゃあ俺、着替えるから先に行ってる」


 そう言い残し、兼続は足早に駆けだした。その後を追うように、二匹の犬たちが走り出した。少し肩をすくめた後、父親も後に続いた。


 再び風が吹き、薔薇の垣根の向こうで紫煙が揺らめく。


「あれかぁ。今度の獲物は」

 二人と二匹が去った後へと視線を向けながら、タバコを咥えた長身痩躯の男が呟いた。年の頃は二十代半ば、スータンと呼ばれる神父服を身に纏い、胸には質素な十字架が掲げられている。


「おまえの餌には勿体ないなぁ」


 男は咥えているタバコを手に取ると、空いている左手を掲げた。そして、その手に絡み付いている頑丈そうな半透明の鎖に口付けた。それに応えるかのように、男の背後で何かの気配が動いた。


 


 晩春の日差しがステンドグラスを通し、そう広くはない礼拝堂の中を彩っていた。穏やかな声音で語られる聖書の文章が、ゆったりと辺りに響いていく。


 兼続は気を抜けば思わず出てしまう欠伸をかみ殺しながら、ぼんやりと耳に入ってくる朗読が終わるのを待っていた。家が教会だからといって宗教に興味があるわけでもなく、むしろ典礼は休日に遊びに行けないストレスの元となっている。


「あ・さ・い・くん」


 突然、小さく耳元で囁かれた声に驚き、兼続は声を上げそうになってしまう。慌てて口元手で押さえ、そのまま声の主を確かめるかのように、ゆっくりと振り返る。そこには、先ほど庭先で見かけた少女の姿があった。


「い……」


 思いがけない相手に、手が離れた兼続の口は再び大きな声を上げそうになり、またもその口を塞ぐ事となる。軽く息を吐きながら手を離すと、兼続は相手に合わせて少し身体を屈めた。アルバの上に左肩からたすき掛けされたストラの端が揺れる。


「委員長? なんでここに?」


 委員長と呼ばれた少女は、耳元で囁かれる言葉に少し悪戯っぽい視線を返した。


「い・ち・か」


 兼続の耳に自分の名前を囁き返し、一花と名乗った少女はふわりとした空気を纏った笑みを浮かべた。その様子と言葉に、兼続は戸惑いの表情を顕わにする。同じクラスではあるが、名前で呼ぶような親しい間柄ではないのだ。


 一花はじっと困惑した表情を浮かべている兼続の顔を見つめた後、その手を取ると静かに出口へ向かって足を踏み出した。突然の一花の行動に呆気にとられ、兼続は考える間もなく礼拝堂の外へと連れ出されてしまった。


「委員長……?」


 どう対応して良いのか分からず、兼続は一花を見つめる。柔らかく緩やかな波を打つ髪が陽光を受け煌めくのを、兼続は少し目を細めながらボンヤリと見つめた。


「一花」


 そう言いながら振り向いた一花の髪が揺れる。


「い……一花……?」


 兼続が戸惑いながら紡いだ言葉に、一花は満足そうな笑みを返した。


「じゃあ……、私はかーくんって呼んでもいい?」


 楽しそうな表情の一花とは裏腹に、兼続はガックリと肩を落とし表情も沈む。


「それは勘弁して……」


 兼続の答えに、一花は残念そうな視線と表情を向けた。


「兼続くんって言い難いんだよね」


 そう呟きながら、一花はねだるような視線で兼続を見上げる。


「そんな事より委員長、なんか用とか?」


 名前から話題を反らすために、兼続は一花に対する疑問を口にした。それに対し、一花は少しふくれた顔をする。きれいな顔立ちに可愛さが加わり、僅かに高鳴る鼓動を押さえ込むかのように、兼続は軽く視線を反らした。


「さっきも、庭の処にいただろ?」


 思わず見蕩れそうになった事を隠すかのように、兼続は続けて質問を投げかける。


「そういえば、お庭きれいよね」


 兼続の質問に答えることなく、一花は庭の方へと視線を向けた。あまり捉えどころのないの無い一花の言動に諦めを覚えたのか、兼続は無言で庭へ向かって歩き出した。一花はすぐにその後に続く。


「ねえ。かーくんも神父さんなの?」


「へ?」


 唐突にかけられた言葉に、兼続は思わず立ち止まってしまった。


「いや……。っていうか、かーくんはやめてくれ……」


「一花って呼んでくれたらね」


 足を止めることなく庭へと向かいながら、一花が答えた。返答に困った兼続は、その後を追うように足を踏み出す。


 高校に入学してから約二ヶ月、目の前に居る一花と接触する機会は特に無かった。兼続の記憶にある限り、まともに話をしたのは今日が初めてになる。


 庭に足を踏み入れた途端、白い毛並み、黒い毛並みの二匹の大型犬が、兼続に向かって嬉しそうに駆け寄ってきた。


「シロ、クロ」


 名前を呼ばれた二匹は、更に千切れんばかりに尾を振りまくりながら、勢いよく兼続に飛びついた。


「うわっ!」


 二匹の大型犬の体重とスピードが乗った体当たりに、兼続は耐えきれずにその場に倒れ込んでしまう。そのまま、二匹の犬たちは兼続の顔を舐め始めた。兼続は二匹を引きはがしながら、一花の姿を探した。少し離れた場所にその姿を見つけ、近寄ろうと足を踏み出す。そのとたん、二匹の犬たちが兼続の前に立ちはだかり、低い唸り声を上げ始めた。


「シロ? クロ?」


 外見とは裏腹に、普段は番犬にならないほどの人懐っこい犬たちである。初めて見る二匹の様子に、兼続は少し戸惑う。


「やめろ!」

 二匹を押さえ込むように触れ、兼続は制止の声をかける。その言葉に二匹は唸るのをやめ、不安そうに兼続を見上げた。


「どうしたんだよ、お前達……」


 二匹の頭を撫でながら、兼続は呟くように声をかける。おとなしくその場に座り込んだ犬たちに安心したのか、兼続は少し離れた場所にいる一花に視線を向けた。


「ごめんな。こいつら、いつもは人懐っこくておとなしいんだけど」


 兼続の言葉に、一花は首を横に振った。


「その子達の所為じゃなくて、私、なぜか動物に嫌われちゃうの」


 少し悲しそうな表情を浮かべる一花に、兼続は胸に小さな棘が刺さったような感覚を覚えた。


「シロ、クロ、向こうに行ってろ」


 そう言いながら教会の裏を指さした兼続を、二匹の犬たちは悲しそうに見つめた。


「後でたくさん散歩に連れて行ってやるから」


 兼続の言葉に犬たちは、渋々という感じで指さされた方へ歩き出した。何度も振り返る犬たちの姿が消えたのを確認すると兼続は一花に向かって歩き出した。


「なんか、凄く大きいし狼みたいな犬だね」


「そう?」


「かーくん。あの子達、あまり見ない犬だけど珍しい種類なの?」


 そう言葉を続け、一花は兼続へと視線を移した。


「珍しい?」


 かーくんと呼ばれたのにも気がつかず、兼続が疑問を返した。それに対し、一花が頷いた。


「いや……。ただの雑種だと思うけど……」


 一花の言葉に兼続は少し考え込む。物心が付く前から一緒にいる二匹だが、珍しい犬種だとか血統書があるだとかいう話は聞いたことがない。


「委員長は、犬が好きとか?」


「一花」


 何度目なのか、一花は自分の名前を兼続に伝える。なぜ、そこまで名前を呼ばれることにこだわるのか兼続の中に疑問がわく。


「なんで名前?」


 兼続が疑問を口にすると、一花は改まった表情と視線を向けてきた。


「だって、好きな人には名前で呼んで貰いたいから」


「あーそうか」


 納得できる一花の言葉にそう答えてから十秒後、兼続の思考が止まった。


「え?」


 先ほどの一花の言葉を兼続は頭の中で何度も反芻する。


「って、えーっ?」


 一花の言葉を意味通り受け取って良いのか、それともからかわれているのか悩み、兼続は何の対応も出来ずにその場に立ち尽くした。


「あ、返事はいますぐじゃなくてもいいから」


 一花は、固まり続けている兼続にそう告げる。


「じゃあ、私、帰るね」


 未だ何の反応も示さない兼続に軽く手を振り、一花は背を向けて歩き出した。ゆっくりと歩いて行く途中、一度だけ一花は振り返り兼続の様子を確認する。先ほどと変わらず固まっているその姿を確認すると、一花は視線を戻し再び足を踏み出した。


 一花が教会から少し離れると、住宅街の静けさの中に音楽鳴り響いた。それは、着信を知らせるものであり、すぐに一花は携帯を手にする。


「Hello」


 兼続と共に居たときの表情とは打って変わり、感情のない表情と声音で通話に応える。


「I approached the target」


 そう応え、通話を終えた表情に感情が戻る。何かを確認するように振り向き、少し距離がある教会を確認すると一花は再び足を踏み出した。


 


 爽やかな朝の日差しにそぐわない表情と様子をした兼続が校門をくぐった。次々とかけられる朝の挨拶に反射的に応えながら、玄関へと向かう。靴箱の前に辿り着くと、数人のクラスメートがおり、兼続に視線を向けてきた。


「おはよ」


 朝の挨拶が人数分、投げかけられた。


「おはよー」


 先に声をかけてきたクラスメート達に少し遅れて、兼続は挨拶を返す。


「何? 寝不足? 体調悪いとか?」


 どんよりとした兼続の様子に、クラスメートの一人が声をかける。


「あーうん。寝不足……かな……」


 寝癖の残る頭を掻きながら、ばつが悪そうに兼続が答える。去り際の一花の言葉が耳に残り、何度も脳内で反芻されて兼続の睡眠を妨げたのだ。


「何? また犬の散歩コースで悩んでたとか?」


 少しからかうような口調で、クラスメートが問いかける。学校での兼続の評価は、"色々と勿体ない犬バカ"である。せっかくの見た目の良さも宝の持ち腐れのように構うことなく、口を開けば犬の話ばかりという状態だ。


「あーいや……その……」


 戸惑い言葉を濁す兼続の様子に、クラスメート達は特に気にすることもなく次々と靴を履き替えていく。それに続き、兼続も靴を履き替えた。


 他愛もない会話を交わしながら、兼続とクラスメート達は教室へと向かいだした。すぐに上着の裾を引かれ、兼続は立ち止まる。そして、背後を確認しようと振り返った。そこには、小首を傾げながら兼続を見上げる一花の姿があった。


「い、いいんちょ?」


 勝手に口から出た言葉を慌てて飲み込むかのように、兼続は口元を手の甲で押さえた。


「えーと……その……」


 名前で呼ばなければ、不本意な呼び方をすると言われていたことを思い出し、兼続はどう対応するべきか判断がつかずに悩む。少し悪戯っぽい表情と視線を向けながら、一花はゆっくりと口を開いた。


「おはよ。浅井くん」


 予想とは違った普段と変わり無い一花の様子に、兼続の表情が安堵の色を浮かべた。


「お、おはよ……」


 挨拶を返したは良いが、その先の対応に戸惑い兼続はそのまま黙ってその場に立ち尽くす。突然、首に何かが絡まるのと同時に兼続の身体に重みがかかった。


「何? そこの二人、なんかあやしくない?」


 いきなりなクラスメートの行動と言葉に、兼続は戸惑い、言葉が上手く出てこなかった。


「挨拶をしていただけよ」


 一花が兼続の背後にしがみついている相手に向かい、事も無げにそう告げる。


「あ、そうそう。挨拶」


 一花とは違い、兼続の様子や言動は明らかに不審を伺わせる物であり、クラスメートは疑いの視線を向けた。


「じゃあ、また後でね」


 一花はそう言い残し、教室へと向かった。


「また後でね。だって」


 二人の様子を訝しむように、クラスメートは口を開く。後でと言い残した一花の真意が気になり、からかい混じりのクラスメート言葉は兼続の耳には届かなかった。


 


 四時間目の終わりを告げるチャイムが鳴り響いたが、兼続は身動ぎもせずに机に向かい続けていた。朝からずっと一花が残した言葉の意味を考えており、授業など身に入っておらず、終了の合図も聞こえてはいなかった。


「浅井くん」


 名を呼ばれ、兼続は声のした方へと視線を向けた。確認するまでもなく、そこには一花の姿があった。


 何か用かと訊くのもわざとらしい気がして、兼続は一花の出方を待つ。朝、『また後で』と言った意味は昨日の発言に対しての答えを希望しているのか、それとも他に用事があるのか、逸る鼓動と共に一花の口が言葉を紡ぐのを黙って見つめ続けた。


「お昼、一緒に食べても良い?」


「え? あ、うん」


 小首を傾げながら視線を向ける一花に、兼続は思わず了承の返事をする。


「ありがとー」


 嬉しそうに一花は礼を述べた。


「ねえ。天気が良いから、外で食べない?」

 窓の外へと視線を向けながら一花が尋ねた。昼食は弁当なので、どこで食べても良いかと思い、兼続は頷き答えた。兼続の様子に一花は更に嬉しそうな笑みを浮かべ、教室の外へと向かう。兼続は机の中から弁当を取りだし、その後を追った。互いに黙ったまま廊下を歩くのは少し気まずいと兼続は思ったが、だからと言って何か言葉を口にするのもはばかられた。


 昨日、一花が残した『好き』というのはどういう意味なのかを兼続は考えていた。ただのクラスメートとしてなのか、友人としてなのか、異性としてだとは思い難く判断に悩んでいたのだ。周りとは多少異なる容姿のせいで、物心が付いた時から女子にはあからさまに避けられていたのだ。


 中庭へと辿り着くとすでに弁当を広げている生徒達が数人おり、兼続達もそれに混ざるように空いた芝生の上へと腰を降ろした。


「浅井くんの名前って面白いよね」


 別当を広げながら、唐突に一花がそう言った。


「そう?」


 兼続自身、自分の容姿には似合わない名前だとは思っている。今時の名前として使用される物でも無いというのも理解しているが、面白いと思ったことは一度もなかった。


「名字が浅井なら、名前は長政とかじゃないの?」


 一花の問いを聞き、そういう意味の面白いなのかと兼続は納得した。


「父さんが、日本男児みたいな名前にしたかったっていうのと、海外育ちで侍とかそんなのに憧れて気に入ったのを付けたとか言ってた」


「浅井くん、帰国子女なの?」


 弁当に箸を付けようとした手を止め、一花は視線を兼続へと向けた。


「いや。俺は日本生まれの日本育ち」


 そう答えると兼続は、箸で掴んだ卵焼きを口へと運んだ。毎朝、父親が作ってくれる弁当は、今日も文句の付け所がない見た目と味である。


 すぐに会話が途切れ、兼続と一花は少し居心地の悪い沈黙の中で弁当を食べ続けた。何か話を切り出してくるのではと思い、兼続は箸で置かずを口に運びながら横目で一花を確認した。だがそのような様子は見受けられず、楽しそうに一花は弁当に箸を付けている。


「あの……さ……」


 このまま黙って弁当を食べ続けてもと思い、兼続は重い口を開く。


「昨日の事なんだけど……」


 口を開いたは良いが、やはりどう切り出して良いのか分からず、兼続はそのまま口を噤んでしまった。一花の箸が止まり、先ほどまでよりも思い沈黙が兼続を支配する。何か言葉を口にするべきなのだと思いつつも、兼続の鼓動は早鐘を打ち乾いた喉からは声が出てこなかった。


「好きって言ったこと?」


 特に気を張った様子も無く一花が聞き返した。


「あー、うん。そう」


 何故か、兼続の方が気まずそうに答える。


「そのままの意味だけど……」


 少し哀しそうな表情で俯きながら、一花はそう呟くように言った。


「そのままって……。えっと、その……」


 今まで女子から好意を寄せられたことなど無く、兼続の思考は混乱した。


「友達としてとか……?」


 そう口にした途端の一花の表情を見て、兼続は自信の言葉が間違えていた事に気が付く。


「えっと……、その……。ごめん……」


 間違いに対して謝罪をした兼続の言葉に、一花は哀しそうに視線を伏せる。


「……そっか……。ごめんね……」


 視線と同時に顔を伏せた一花の様子と言葉に、兼続はその意味を理解出来ずに固まってしまう。しばし後、先ほど口にした謝罪が告白を断るものだと判断されたのだと気が付いた。


「あ、違う。ごめん」


「違う……?」


 兼続の言葉に、一花は顔を上げ視線を向けた。


「……女の子にそんなこと言われたことなくて……。だから、よく分かんなくて……」


 兼続の体温が急激に上昇し、心臓も驚くほどの勢いで早鐘を打つ。今まで、特に女子を意識したことはなく、初めての感覚に兼続は戸惑う。


「嘘……」


 驚いた表情を浮かべ、一花は兼続を見つめた。


「嘘?」


 一花の言葉が理解出来なくて、兼続は反射的に疑問を口にした。


「浅井くん、女子の間で凄い人気なんだけど……?」


「え?」


 一花の言葉に、兼続の口からは無意識に疑問が零れた。更に、その言葉の意味を理解するのに五秒ほど要し、兼続は軽く口を開けたままの間抜けな表情で一花を見つめた。


「えぇーっ! 何で!?」


 素直な疑問が兼続の口を付いて出る。今まで、女子からはあからさまに避けられるばかりで、そのような話など聞いたこともなかったのだ。


「何でって、カッコイイし可愛いし……」


 一花の答えに、それは何か相反していないかと兼続は思う。


「俺、カッコイイの?」


 幼い頃は『ガイジン』と陰で呼ばれ、この容姿は嫌悪を与えるもので、今でも遠巻きに見つめる女子の視線は、その頃と変わらない物だと思っていた。

 兼続の問いに、一花は無言で俯いた。


「俺、可愛いの?」


 再び、兼続の質問に一花が頷く。信じられないという表情を浮かべたまま、兼続は黙り込んだ。


「だから、誰かに先を越される前にと思ったんだけど……」


 不安を浮かべた表情と視線を、一花は金つげへと向けた。


「あ、俺……。本当に今までこういうのって無かったから、よく分かんなくて……」


 一花の言葉にどう応えてよいのか分からず、兼続は悩む。クラスメートとはいえ、昨日までは特に意識したこともない相手である。とはいえ、昨日の発言が頭から離れず、一花が気になる存在に成っている事は間違いなかった。


「ごめんなさい。突然だったから浅井くん困ったよね……。」


 落ち込んだ声音と共に少し視線を反らした後、一花は僅かに顔を伏せる。


「あ、いや、別に困ってないし……っていうか、嬉しい……」


 困っていないというのは多少嘘になるが、嬉しいというのは本当である。だが、それが恋愛感情なのかどうかは、兼続には判断出来なかった。上がりっぱなしの体温と早鐘を打つ鼓動が、兼続の思考を鈍らせたのだ。


「ありがとう」


 嬉しそうな笑みを浮かべ、一花が礼を述べた。その様子に、原価だと思っていた兼続の心臓が更に跳ね上がった。


 


 六時間目の終わりを知らせるチャイムが、どこか遠くで響いているような感じで兼続の耳に届いた。昼休み、ハッキリとはせずに何となくそのまま終わりを迎えてしまったが、あれは一花の告白を了承したということになるのか、それとも違うのか曖昧な状況に兼続は悩み続けていた。


 放課後、一花に確認を取るべきなのか、それともこのまま様子を見て判断するべきなのか、この様な事柄に対しての経験値が全くない兼続には難しい問題であった。


 思考を遮るかのように自分を呼ぶ声が聞こえ、兼続は視線をそちらへと向ける。心配そうに覗き込む一花の表情がいきなり視界に現れ、兼続は思わず椅子から落ちそうになるほど驚いた。


「浅井くん? 大丈夫?」


「あ、うん」


 慌てて体勢を立て直すと立ち上がり、兼続は一花に返事をする。それを聞くと一花は安堵の表情の後、に笑みを浮かべた。兼続は辺りを見回し、教室内の生徒が減っていることに気が付き首を傾げた。


「あれ? 授業は?」


「終わったよ。ホームルームもさっき終わったよ」


 不思議そうに辺りを見回す兼続に、一花は少し悪戯っぽい表情と声音で答える。


「え? 嘘!」


「ホント」

 瞳に映る自分の姿に気が付き、兼続は視線を反らす。


「えっと……その……帰る……?」


 一花に対して自分の立場 そう答えると一花は兼続に近寄り、その顔を見上げた。メガネの奥で少し潤んだ一花のがイマイチ分からない兼続の言葉は中途半端な疑問系のものであった。それに対し、一花は何の迷いも戸惑いもなく頷いた。すぐに一花は鞄を取りに自分の机へと向かう。その後ろ姿をボーッと見つめながら、これはやはり付き合っているで間違いなのだろうかと兼続は考え始めた。


 兼続は今まで、特に女子の容姿を意識して見ることは無かった。自信には関わりの無い事だと思っていたからだ。改めて確認した一花は極上と言っても差し支えは無いのではないかと思われるほど、可愛いと兼続は感じた。


「浅井くん?」


 一花の声で意識を引き戻され、兼続は目の前で自身を見上げるその姿を改めて視界に捉える。ジッと見上げるその瞳は、先ほどまでの邪な考えを見透かしているように感じ、兼続は羞恥でその頬を朱に染めた。


「お待たせ」


「あ、いや……」


 言葉を濁しながら、兼続は帰り支度を始めた。まだ教室内に残っている生徒達の視線や言動が自身に向けられているような気がし、早子この場から立ち去りたくて、急いで鞄に物を詰め込んだ。


「じゃ、帰ろうか?」


 帰り支度を終えた兼続は、一花に帰宅を促し廊下へと向かう。兼続は少し気まずさを覚えているが、一花にはそのような感じは見受けられなかった。


 楽しそうに話しかけてくる一花に、兼続は相づちを打ったり返事ををしながら校門をくぐった。校外へ出た後、これからどうするべきなのかと兼続は思い悩む。とりあえず、付き合っているような感じなので、一花を家まで送るとかするべきなのだろうかと考えつく。


「浅井くん」


 一花に呼ばれ、兼続は思考を止めた。


「何?」


 足を止めた一花に続き、兼続も立ち止まる。すぐに、一花が上目遣いで見上げてきた。何か考え込むように小首を傾げた一花に、付き合っていないのに勘違いするなとか思われているのではと思わず考えてしまう。だが、好きだと言われているので、それは無いだろうと思い直した。兼続自身も一花を意識し出し、一番気になる相手に成ってきているのだ。


「手、繋いでもいい?」


 少し不安そうに兼続を見つめながら、一花が尋ねる。


「う、うん」

 反射的に了承の返事をした兼続は、手を差し出そうとして思い止まると急いで制服のズボンで手のひらを拭く。怖ず怖ずと差し出した手に一花の指先が触れ、うるさいほど心臓が大きな音を立てた。重ねられた手のひらの感触に身体は熱を帯び、戸惑いながらも兼続は一花の手を握り返す。


 これで付き合っていないというのは絶対にありえないという状況に、兼続はもうその事について考えるのを止めてしまった。


「かーくーん!」


 突然、嫌と言うほど聞き覚えのある声がし、兼続は振り返る。そこには嬉しそうに手を振りながら近づいて来る父親の姿があった。


「だから、かーくんって呼ぶな!」


 目の前に来た父親に、思わずいつもと同じ返事が口を付いて出た。


「も、もしかして……かーくんの彼女?」


 兼続の言葉など耳に届いていないかのように、父親は一花へと視線を向けた。


「え? あーその……」


 父親の質問に、どう答えるべきなのか悩み言葉を濁す。返事に困っていると、握り締めていた一花の手に微かな力が込められた。


「ってか、なんでこんなとこに居るんだよ?」


 返答を誤魔化すかのように、兼続は少し荒げた声で話題を変えた。普段、殆ど教会から出ることのない父親と、なぜ今日この時に出会ってしまうのかと兼続は自身の運の悪さを呪った。


「あーそうそう。今日から修行の人が来るんだけど、道が分からないらしくて迎えに来たんだよ」


 兼続の顔へ視線を向け、父親は思い出したと言わんばかりにポンッと手を叩いた。


「なら、早く探しに行けよ」


「そうそう。早く探しに行かないとね」


 そう言いながら父親は足を踏み出したが、すぐに歩みを止めて振り返る。


「今日のオヤツはズッパイングレーゼだから、彼女も連れておいでね」


 そう言い残し、兼続が声をかける暇もなく父親は足早にその場から立ち去った。


「あーごめん……。変な父親で……」


 一花に呆れられたかもと兼続は軽く心の中でため息を吐いた。


「変じゃないけど、ミサの時とはかなりイメージが違うから少し驚いた」


 楽しそうに小さく笑いながら一花が答えた。


 確かに父親は、ミサや説法をしている時と普段ではまるで別人のようである。あの厳かの空気と近づきがたい威厳からは、普段の様子はまったく想像できない物である。


「そういえば、委員長ってクリスチャンなの?」

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