最初と最後の特攻隊員
フィリピン・ルソン島のマバラカット。首都マニラから北へおよそ90キロメートルに位置するこの地名に聞き覚えのある人はもうほとんどいないだろう。
今からちょうど80年前、1944(昭和19)年10月25日。マバラカット飛行場から、関行男大尉率いる敷島隊5名が、レイテ島タクロバン沖の米艦隊を目標に出撃した。これが、その後終戦の日まで続いた航空機による特別攻撃のはじまりである。
「敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山桜花」江戸時代の国学者本居宣長の和歌から引用された「第一神風特別攻撃隊」は、敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊と名付けられた。
自ら「統率の外道」としながらも特攻の生みの親と称される大西瀧治郎の名はよく知られているが、この最初の特攻隊に、南相馬市原町出身者がいたことはご存知だろうか。
1925(大正14)年生まれ、中野磐雄だ。中野は、原町尋常高等小学校、県立相馬中学校を卒業後、海軍飛行予科練習生、通称「予科練」の甲飛10期に入隊、搭乗員として足跡を刻んでいた。運命の巡り合わせで敷島隊の隊員となった中野は、隊長の関に続く2番機として出撃、還らぬ人となった。まだ19歳であった。現在は、原町区夜の森公園内の銅像と慰霊碑でその面影を忍ぶことが出来る。
「最初の特攻隊」は原町の中野磐雄であったが、「最後の特攻隊」も浜通り石城郡の出身者であったことを忘れないでほしい。
1924(大正13)年、常磐炭鉱の長倉で生まれ、日本水素工業小名浜工場操業の第一期入社であった大木正夫だ。中野と同様、時代の風潮に背中を押されるように予科練(乙飛17期)に入隊したのは、日米開戦一週間前1941(昭和16)年12月1日のことであった。
大木は私の曾祖父の弟だが会ったことはない。特攻戦死したのだから当前だ。でも―。
泉駅からほど近い曽祖父母宅。敷居を跨ぎ、靴を揃え両手をついてご挨拶、仏壇にお線香をあげる。居間の鴨居には、制服姿の若い遺影が飾られていた。この家で時空を超えてすれ違い、彼は遺影となり、小さい私はその遺影を見つめていた。
「お兄ちゃんなのにどうしてだろう―」。その人が、終戦の日の特攻隊で出撃したことを知ったのは、それから10年以上も経ってからのことである。故祖母などによると、一度だけ家の上空を旋回する飛行機があったという。皆で一生懸命日の丸を振ったと。これが最後の別れとなった。
大木は、玉音放送から5時間後に出撃した23名の特攻隊員の一人だった。当時司令長官の宇垣纒(まとめ)が、死に場所を求め若い搭乗員を道連れにしたとの批判も多く「宇垣特攻」とも呼ばれている。
特攻作戦から80年。拙著『8月15日の特攻隊員』が単行本以来17年ぶりに文庫本となったのは、もう誰も書けないからとのこと。先週末、秋晴れのなか第32回泉ふるさと祭りが行われた。小さな駕籠屋を営んだ大木家のあった通りだ。この賑やかで平和なお祭りを、きっと空から眺めているのだろうなと思いながら、縁日屋台と、青い空を仰いでみた。
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