差別とは/言わないまでも/ドラマでは/ホステスの名は/決まってアケミ◆「私」と「母」についての私的な覚え書き。②
私の母の名前は『アケミ』である。
「暁」に「美しい」で『暁美』。
令和5年5月6日に76歳で亡くなった、私の母の名前である。
「私」を覚え書きしようとすると、必ず「母」は登場するし、いつか「私」が「私」でなくなってしまったときのためにも、「母」のことは少しでも、「私」が「私」であるうちに、覚えていることを、書き残しておきたいと思った。
彼女の最期については、まだ思い出すのは、辛くて悲しくて、息ができなくなりそうなので、おいおいに…
ゆぅて、あんまり記憶はないけども…
(海馬の仕分け、雑か)
*「海馬 」とは、神経細胞の結合をつくる役割を果たしていると言われ、短期記憶から長期記憶へと情報をつなげる中期記憶を担う器官。
長期記憶にはさらに、昨日の食事メニューなど特定の体験を通して覚えている「エピソード記憶」と、いわゆる暗記のように知識にひもづく「意味記憶」があり、エピソード記憶と深い関わりがあるのが「海馬(かいば)」と呼ばれる脳の一部分。
日常的な出来事や学習して覚えたことは、いったんこの海馬にファイリングされ、整理整頓してから、大脳皮質という部分へ保存されるため、海馬は記憶を仕分ける司令塔の役割を持つ。
◆「私」に纏わる記憶の話。
以前、まだ母が生きている頃だったと思うが、二人ともマツコ・デラックスさんが好きで、かの人が出ている番組はタイミングが合えば、視聴していた。
そのなかで、マツコさんが「あんまり、自分についての昔の記憶がない」みたいなことをポロッと言っていて、あぁ、私だけじゃないのか…と、ひどくホッとした覚えがある。
私も「私について」の記憶を、多分ほとんど持ち得ていない。
物心がついて、まだ父親もそれなりに家庭のなかに存在していた頃、それこそ一般的な普通の家庭と同じように、夏休みには家族で海に旅行に行ったり、正月は父方の田舎に帰省したりという非日常的な思い出なり、年の離れた兄と姉に誕生日に貰ったモノとか、仲の良かった友だちと喧嘩したとか、そういう日常的であっても衝撃度や気持ちの揺らぎが強いエピソードの記憶なりが、なんぼかありそうなものだが、私はほとんど記憶になかったりするワケだ。
なんとなーく、断片的に思い出せるモノにしても、母や友だちから「又聞き」して、想像補完した記憶くさいよな…と、自分の記憶を常に疑っている。
それくらい、昔の記憶がない理由のひとつは、三半規管が弱々だったからのような気がしないでもない。
本当に何故かは、よくわからないが、酔い止め薬という物が、この世の中に普通に市販薬として出回っていることに、社会人になってから、遅まきながら気付いたので、私は、これまで乗り物酔いをしたときに、薬を飲んだことがなくて、母から与えられたこともなくて、そんな自分自身に驚いた…
…どういうことなん?
なので、物心がついてから、どこかに出かけるときは、必ず寝るようにしていた。
自らでの「強制終了」状態。
そうしないと、100%リバースするのでね。
電車も車も、新幹線もバスも飛行機も、母の漕ぐチャリンコの荷台でさえも、酔ったからな…
今も存在するかは不確かだが、昔デパートのおもちゃ売り場に、チョコとかキャンディとかのお菓子がバラ売りされていて、それがメリーゴーランドみたいな回る装置?什器に入れられていたと思うが、あそこには絶対に近寄れなかった。
視界に入れただけで、キツい…
あれ、回す必要性あったんかな…
見てるだけで、吐くわ…
そんなわけで、旅行中の移動時は、基本ずっと寝ていたので、途中で起きても、ただただ気持ち悪くて、意識が薄らぼんやりだし、なんなら起きてもずーっと気持ち悪かったりして、そこそこ成長してからも、絶景とか紅葉とか、綺麗な景色なんかを、感動的に見てる余裕は、どこにもなかったのである。
◆記憶のひと欠片、または不特定大多数のなかの。
私が母と行った旅行で、きちんと参加理由や旅行先なんかを強烈に覚えている一番古いエピソードが、私が大学生の頃のモノなので、私の海馬のやる気の無さが計り知れるかと思う。
そのときは、たしか、当時、父親がめっちゃ借金していた信用金庫主催の千葉県鴨川市への顧客招待バス旅行で、相変わらず、私は母と二人参加しており、そのときも、宿にもうすぐ着くからと寝ているところを無理やり起こされた私が、バスの座席でぐったりしていたら、窓から見えた本日の宿というホテルの建物に対して、母が「…え?平屋??」とバスの車内に響く、よく通る声で言ったので、気持ち悪さが吹き飛ぶほど、笑ったのを覚えている。
大型観光バス4台分の客の宿泊先が、平屋て…
そんなん、パンパンやん…
建物は、反対側が海側の岸壁を一部利用して建築されていて、道路側から見ると、たしかに一階部分しか見えないし、多分そこが建物の四階とか、そういう作りになっていたから、パッと見、平屋だけども…
そんな大きな声で言わなくても…
そのエピソード以外は、全く記憶にないので、相当オモロかったんでしょう。
母も、自分で言って、自分で爆笑してたけど、バスの車内、シーンとしてたわ、そういえば。
(この親子、最悪やな…)
笑いの感性が、ほかの人とは違うと感じるときは、そういうときだったりするし、自分の親と感性が似てると思うのも、そういうときだったりする。
そんなふうにして、自分も、自分の母親も、まわりのほかの人たちと比べると、どうやら、ちょっと違う枠で生きてるっぽいぞ…と、気づきはじめるのである。
◆普通の母親、普通の家庭、普通の家族。
「普通の家庭」というモノが一般的に、それこそ、どういうモノかなんて、自分が所属している家庭しか知らない狭い視野、狭い世界で、日々を生きている子どもには、まず判断がつかなくて当たり前だし、ほかの家庭と比べようとしない限りは、自分が所属する家族というモノが、その時点では、その子どもの「スタンダード」になってしまうのも、当たり前の現象ではなかろうか。
そこに関しては、ちょっと前だと、親ガチャ的になんやかんやと論じられていたりもしたが、個人的には、懐かしきSMAP/セロリ♪育ってきた環境が違うから〜という、一言に尽きる気がしている。
だって、その家庭、その家族のもとに「生まれてきてしまった」ものは、しゃーない。
環境が違えば、対応も違うに決まっている。
コレは人間の子育てだけじゃなくて、ほかの生き物、動物でも当てはまる案件だろうし。
そういう外的要因な部分については、幼い自分では、いかんともしがたい事象なのだから。
うちの母は、どうやら、ほかのお母さんたちとは、ちょっと違う、かも?と気づくのが、私は割と遅かったような…
多分、小学校高学年くらいか?
給食がないときに持たされる弁当のビジュアルが、ほかの子らとは、全く違ったのは覚えている。
オムライス弁当という、名前の響きは素敵だが、弁当の蓋を開けたら、薄焼き卵の黄色1色だったとき、さすがに子ども心に恥ずかしくなったので…
3色ほしいとは言わん…
せめて、ケチャップの赤色くらい、足してくれてもよくない?
そういった些細な弁当以外にも、まぁまぁ一般的な家庭のなかには確かに存在するであろう「父」についても、ほかの家族とは違っていて、確かに、うちに「父」は居たけど、ほぼほぼ「母ひとり」な感覚だったし、母は、ことあるごとに言っていた「アレは、家庭を持つ人ではない」と。
…母よ、そんな男と、なんで、結婚したん???
情緒、不安定すぎるやろ…
「私」の容量の少ない記憶のなかで「父」に関するような、父親と二人、密に過ごしたとかいう詳細なエピソードは、私の脳内蓄積データ内にはほとんどなくて、私の家庭は小さな頃から、まるで「母子家庭」のようだったから、父が自営業を倒産→自己破産→蒸発しても、あまり衝撃は受けなかった。
アイツ、逃げよった…とは、思ったけれど。
私のなかでは、彼は「家族」ではあったけれども、もともと「私の家庭のなか」にはいなかった登場人物なのかもしれない。
◆「無」の「私」。
そんなことよりも、非常に大事なのは「私」の毎日の心穏やかに過ごせる生活であって、その生活に密に関わるのは「母」という人間、ただひとりなのである。
自分の平穏な生活を守るために、幼い私は、自分が如何に「生きやすく」なるかを日々、黙々と考えた。
母親のジェットコースターのごとく、常に変化する自律神経系統からくる情緒不安定さの嵐に度々見舞われる、狭い家庭という逃げ場のない世界のなかで、如何に自分が「生きやすく」なるよう、自分の我を殺し、母の情緒に寄り添う術は、そこそこ幼いなりに、まぁまぁ、身につけられていたので、特に自分の母親が憎いとかは思わなかったし、キライとかイヤだなーと思うこともほとんどなくて、母の八つ当たり的な怒りや体罰に対しても、小さな頃は「全て、鈍臭い自分が悪い」と信じて疑わなかった。
物心がついてから、ずっと、彼女の体調が悪かったり、機嫌が悪いタイミングで、さらに母をイライラさせるようなことをすると「アンタは本当に鈍臭いんだから」と言われて、怒鳴られ、叱られ、叩かれたり、ひっぱたかれたりする日常は、私には「普通の家庭の出来事」だったので、段々と年齢を重ね、学習した私は、可能な限り、彼女の行動パターンや言動から、そのときの彼女の機嫌をうかがい、常に彼女の顔色を見て、過去の経験値より導き出した対処を先回りして実行し、彼女をイラつかせないように細心の注意を持って、彼女だけを世界の中心とし、生きてきた。
それでも彼女の地雷を踏んでしまった場合には、私は「私」を「無」にして、彼女の怒りを凪いだ気持ちで受け止め、彼女の怒りが鎮静化するまでを、まるで嵐の中に放り出された小舟のように、逆らわず、やり過ごすようになるワケだ。
そして、私の頭の回転、状況判断能力が遅いのが全部悪いのかと、普通にずっと思っていたが、この「母の期待通りに前もって動かず、ノロノロしていたのが悪い」というのは、母の価値観、および母の性格→イラチから判断された、母の単独な基準であると、今ならば理解できる。
けれども、幼い頃、小さな「私」が生きていく場所は「母」のそばにしかなかったから。
そこが「私」の生きていく世界の「全て」だったから、彼女にいくら理不尽にいちゃもんをつけられたとしても、結局のところは全てを受け入れ、我慢して、なるべく自分の受ける被害を少なく、小さくするために「私」は「母」に寄り添い、自分の心を「無」にするしかなかったのである。
◆「理想」と「現実」の差異、または異世界の。
しかし、小学校の高等学年で初めて同じクラスになって、一番仲良くなった子のお母さんが、まさに「こんな母親だったら、すごく嬉しい」を体現するような理想的な女の人だったので、んんん?なんや、おかしいぞ、うちの、と。
どうやら、自分の「母」が「母」界のスタンダードではないらしいぞ、と気付いた瞬間が確かにあって。
当時から、仲が良くなった友だちとは誕生日やクリスマスには、プレゼントの交換を毎年していたのだが、そういうイベント時に、その友だちのお母さんが持たせてくれる手作りなのに、見た目が華やかなお弁当や料理は、子どもの自分からみても、非常に繊細、また垢抜けており、クリスマスかなんかに、パエリアを家庭で作ったからと言って、パエリアのなんか平たい鍋?ごと、お裾分けしてもらったことがあって、衝撃を受けた。
パエリアて…
オサレすぎるわ…
なんや、見たことない平べったい貝いてはるけど??
(ムール貝やな…)
パエリアを家庭で普通に作れる、こういう人こそ「趣味は料理」と明言していい人だと、母の位牌を横目に見ながら、今でも真剣に思う次第。
そのお母さんは、見た目も、ものすごく華奢で、繊細そうな小柄な人で、上品な山の手のお嬢様という雰囲気が滲み出ており、私と、大阪育ちの私の母は、まるで異世界の住人のような、自分たちが持ち得ない「可憐さと可愛さと上品さ」にめっぽう弱い感性の持ち主たちだったので、無条件で、彼女のことが大好きだった。
その人の子どもは、何故か、めちゃめちゃわがままボディに育ち、父方の血を色濃く受け継ぎ、隔世遺伝な見た目をしていて、さらに性格も微妙な感じで、自分のほうがピアノが上手いという理由で、音楽の若い女の教師を影でいびっていたこともあり、見た目も性格も品の良い母親には全く似ていなさすぎて、私と母は、その子のことは、あまり好きではなかった事実がある。
(最低やな、この親子…)
◆ひどく強くて、ひどく弱い「大阪で生まれた女」。
母は、自律神経のもともと弱い人だったんだろうとは思うし、性格的にイラチ(せっかち)で、情緒の不安定さが半端なかった。
けれど、機嫌の良いときは、それこそ、お金があれば、欲しいモノはなんでも買ってくれるような、行きたいところがあれば、すぐに連れて行ってくれるような…気前の良さというか、懐の広さみたいなモノがある人で、自分のなかに「許せない筋」があり、やられたら即やり返すことが可能な、生きるハンムラビ法典のような人であったので、かなり他人とのイザコザは多かったように思う。
彼女が東京に出てくるまでに生き抜いてきた世界が、そういう世界だったからか、すんなりとは一般社会には適合しない性質、BOROが歌う歌詞そのままの、そこいらの男にも負けないような、度胸の据わった負けん気の強い性格は、まさに「姐さん」と呼ばれるに相応しく、やはり、どうしたってカタギ寄りにはならなかったのだろうなと、今さらのように思うし、そういう強さが、彼女の魅力だったのだろうとも、客観的に感じるけれど。
私の「望むモノやコト」は、彼女のそのときの出来る精一杯の上限で、ほぼ叶えてくれようとしていたみたいだし、彼女自身が「母」と「父」の両方の役目、責任を果たそうと、私に対しては、母ひとりで、まぁまぁ誠実に向き合ってくれている感じは、きちんと理解していたので、彼女の理不尽、かつ八つ当たり的な言いがかり、いちゃもんをつけられて、叩かれたりしても、とりあえず「…なんなん?」とは思うけど、そこまで憎む気持ちにはならなかったし、そういった自分の、まわりとは微妙に違う家族のカタチ、家庭の事情、状況が俯瞰で見られる頃には、既に「私」は、大概「無」な心境で生きてきたあとだったから、小さな頃というか、自分の学生時代なんて、今や、ほとんど記憶には残っていない。
今思えば、彼女にだって「彼女が理想とした家族、家庭像」があったはずだけれど、自分がつかまえた男が、3度目の正直にしたとしても、ほんまに男運悪く、またもや「しょーもない」男だったからか、彼女のストレス発散は、晩年心筋梗塞で倒れるまで、タバコと飲酒と買い物、というラインナップだった。
彼女曰く「いつか食べるモノ」で冷蔵庫は、冷凍室も野菜室も全てミチミチで、彼女曰く「いつか着るモノ」で3つあったタンスも一部屋まるごとのクローゼットも、ずっとモノでパンパンだった。
けれど、酩酊感や物欲が満たされたとしても、それは一時的なモノにしかなくて、根本的なストレスの原因が解消されていない彼女の情緒はいつだって不安定で、まるで、いつ破裂してもおかしくない時限爆弾のように、ギスギスゆらゆらイライラふわふわとしており、地雷やチャッカマンみたいに、なんのタイミングで、いつ発火するか、いつ爆破するか、全く予想できない戦々恐々とした不安な毎日を、私は必死に彼女の情緒の揺らぎに、ぴたりと、寄り添うように生きてきた。
それが、幼い頃からの「私」が編み出した、たったひとつの、私が「生きやすい」方法で、当時の私が「母」と「私」しか存在しない狭い「家庭」という世界を、なるたけ穏便に「生きやすく」する術の、全てだったのである。
◆「母」が、私の母ではなく「女」だった頃。
母の『現実は小説より奇なり』な生い立ちを以下、私が覚えている範囲で、とても簡略的にメモっておく。
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昭和17年、第二次世界大戦中に生まれ、大阪大空襲にて母親を亡くし、母方の祖父に育てられる。
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父親のほうは、どうやら綾小路家の末裔?との話で、見た目の良いお坊ちゃま、今で言うヒモ的な、働くことを知らない、ろくでなしだったらしい…
で、戦争で妻を亡くして、さっさと後妻を娶って、前妻との子どものことは知らんぷりだったようだけども…
…男運の悪さ、遺伝なん?
*綾小路家(あやのこうじけ)は宇多源氏の流れを汲む公家・華族だった家。
公家としての家格は羽林家、華族としての家格は子爵家。
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そうして、おじいさんに育てられた母は、小さな頃から延々と虚弱体質だったけれど、戦争で亡くなったお母さんのお姉さん?叔母さんが、既に京都の老舗旅館に嫁いでいて、そこで自分に子どもができなかったこともあり、妹の子どもである体の弱い母をとてもかわいがってくれ、滋養に良い物をはじめ、日用品や着る物の差し入れ、母の通う病院やらの手配をしてくれたおかげで、母とおじいさんとの二人の生活は戦争が終わっても、ものすごい貧困に陥ることにはならなかったようだ。
こういう話を聞くにつれ、母の、この世界を「生き抜く」運の良さを強く感じる反面、だからなのかは知らんけど、彼女の男運だけは、驚くほど非常に悪いのが、世界の平等性というか、人の人生はそこそこプラマイゼロになっているんだなーと、しみじみ感じてしまう由縁である。
私の父が、とても良い例だが、カタギであったとしても、性根はまさに典型的な昭和のろくでなし→「飲む打つ買う」=「酒を飲む、賭けを打つ、女を買う」だったからな…
あと、前述の通り、借金残して、自分はさっさと姿を消すようなクズな男、そんな父ではあったけど、私としては、別に嫌いではなかった。
再三言うようだが、クズやなーと思ったくらいで。
1人だけ逃げるという選択を、あっさり実行できる無責任さ、ヘタレ具合なのには薄々気付いていたし、もともとが、カタギで真面目な仕事を、家族の為に、一生ふんばれるような性根を持つような人間だとは、微塵も思ってはいなかった。
そもそも、母と父の出会いが、新宿・歌舞伎町の時点で、推して図るべしな案件なんでね。
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そして、なんやかんやあり、大阪で少女Aとなった母は18才で、神戸・山口組の組長に見初められ、彼女が望んだことではないらしいけれど、既婚者略奪という外聞の悪いすったもんだの末、正式な組長の嫁になり、まぁ色々あって、それと別れて、ずっと横恋慕してきていた同組の若頭と、何故か結婚し、二人の男児を産み、また色々あって、東京に逃げて、新宿・歌舞伎町のクラブで黒服の父と再婚し、ようやく私が誕生するという、波瀾万丈な人生をおくった、それが大阪で生まれた女、アケミである。
情報量、多すぎるわ…
しかも、最後、雑か…
ハショリすぎやろ…