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童話の世界 その2               『鬼が見た夕日』

黒豹コメント:

最近、町を歩いていた時、見知らぬ女子中学生に「こんにちは!」と笑顔で挨拶され、一瞬、背後を振り返りました。それは自分への挨拶だと分かり、「あっ、こんにちは!」と深々と頭を下げたものです。そういう風景って、かな~り昔には確かにあったようですが、今は遠い記憶となりました。

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『鬼が見た夕日』

 四十年ぶりの故郷はすっかり変わっていた。

 駅の手洗いに行き、鏡を見た。
 鬼がこちらを見ている。重労働に耐え抜いた、いかつい自分の顔だった。
 荒々しい性格がこの町には合わず、勇は高校を卒業すると都会に出た。

 男だけの港湾荷役会社で必死に働いた。

 気がついたら、人並みに家庭を持つこともできないまま、定年退職を迎えていた。
 タクシーに乗った。町並みもすっかり変わっていた。繁華街にはシャッターが目立ち、人の姿はまばらだ。だが、郊外に出ると景色は一変した。何百台も停まれる駐車場があるスーパーマーケットやホームセンターが並んでいる。
 広い田んぼを突き抜け山のふもとに着くと、勇が育った家が見えてきた。

 懐かしさに、涙が溢れてきた。

 それから勇は、畑を耕し、質素な生活を始めた。
 勇の楽しみは毎日のウォーキングだ。自宅と町をつなぐ通学路では多くの小学生とすれ違う。
 最初は勇を恐そうな目で見ていたが、自分から挨拶をしていると、「こんにちは!」と元気に挨拶を返してくれるようになった。
 たった一人だけ、笑顔で先に挨拶をしてくれる少女がいた。
 黒いランドセルを背負っていた。都会では珍しくないが、この町では見たことがない。
 恐い顔のせいか、これまで勇に声をかけてくれる子供は誰もいなかった。勇は帰ってきて良かったと思った。
 だがいつからか、子供たちが挨拶を返してくれなくなった。その少女も、うつむいたまま通り過ぎて行くようになった。
 勇の心にあった温かいものが急にしぼんでいった。

 ある日、ウオーキングの途中、パトカーが近づいてきた。
 嫌な予感がした。

 パトカーが停車し、二人の警官が出てきた。若い警官が「少々お時間をください」と言った。勇は足を止めた。ちょうどその時、向こうから三人の少女がこちらに向かって来るのが見えた。
「これからどちらに?」
 警官が話しかけてきた。
「ウォーキングの途中です」
 勇は穏やかに答えた。
 年配の警官と少女たちの話し声が聞こえてきた。
 ふと見ると、黒いランドセルの少女がこちらを見ていた。別な少女が警官に話しかけている。
「お巡りさん、あのおじさん何かしたのですか?」
「変質者が出たという通報がありました。皆さんも、知らない人には声をかけないように気をつけてくださいね」
 若い警官は、勇の自動車免許証を確認すると去って行った。
 少女たちは、下を向いたまま足早に通り過ぎて行った。勇はやっと、子供たちが挨拶をしなくなった理由がわかった。
 それから子供たちの様子が大きく変わった。中にはひそひそと言葉を交わし、「わーっ!」と叫びながら走って行く子もいた。
 だが、あの少女だけは、気まずそうにうつむいたまま勇とすれ違って行った。勇は悲しかったが、心の中で、「こんにちは!」と、挨拶を続けていた。

 冬が近いある土曜日だった。風が強く、空は灰色に凍りついていた。

 勇はいつものようにウォーキングに出かけた。
 風がゴウゴウとうなりを上げながら帽子をさらおうとする。突風が、まるでお相撲さんのように、背中に体当たりしてくる。「工事中」の看板が、音を立てながら転がっていく。
 ふと、道路の片隅にうずくまる人影が見えてきた。近づくと、老女が必死に歩道の縁石にしがみついている。わきに自転車が倒れ、レジ袋からバナナや缶ジュースがはみ出している。
「大丈夫ですか?」
 勇はしゃがみ込み、食べ物を拾い集めながら老女に声をかけた。
「ありがとうございます。風が強く、息ができなくなって――」
 青ざめた老女の顔が、寒さで震えている。
 のままでは死んでしまいそうだ。
「お家はどこですか? 送って行きます」
「あの山のふもとです。でも一人で大丈夫です」
 風は益々強くなった。
 勇は片手で自転車を引き、老女を抱えるようにして、来た道を引き返した。
 古めかしい一軒家が見えてきた。
 中に入ると、老女は安心したのか、元気を取り戻した。
「仕事で誰もいませんが、温かいお茶でも――」という言葉を遠慮し、踵を返した時だった。
 背中に聞き覚えのある声が響いてきた。
「お婆ちゃん、大丈夫?」
 勇はハッとして振り返った。黒いランドセルの少女が、目を丸くして勇を見ている。
「この人のお陰で命が助かった。死んだお爺ちゃんが現れて、こちらにおいでって。でも、さっちゃんと、もう少し一緒にいたかった」
 老女がバナナをテーブルの上に載せた。
「おじさんも一緒に食べよう!」
 さっちゃんが美味しそうに食べ始めた。
 あの時の笑顔と同じだった。勇もバナナの皮をむいた。
 ふと壁の絵に目が留まった。
 空にぽっかり浮かんだ鬼のような顔と、黒いランドセルを背負った少女が描かれている。よく見ると、「お父さんありがとう」と書いてある。
 老女が口を開いた。
「黒いランドセル、都会の建設現場で働いていた息子が送ってきたのです。最初は、いやだと泣いておりましたが、事故で亡くなってからは大切にするようになりました」
 さっちゃんがクスっと笑った。天国から見守る鬼も、ニコッと笑ったように見えた。

 翌日、勇はウォーキングの帰り、オレンジ色に染まる山を眺めた。
 ふと都会の海に沈む真っ赤な夕陽を思い出したが、山の夕焼けもいいものだと思った。
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最後までお読みいただきありがとうございました。

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