コテンラジオ 老いと死の歴史 第6話
世界の宗教が捉える死 〜死後の世界をめぐる考察と宗教間の美しき不調和〜【COTEN RADIO #294】
■前回
・死んだらどうなるのかについて6つの視点に分類した。
■宗教や哲学において、これまで死がどのように考えられてきたか
①一神教(いわゆるユダヤ教、キリスト教、イスラム教)の考え方
②インド文明における死の捉え方
③中国文明での死の考え方
④日本では死がどのように考えられてきたか
⑤哲学や現代に近い考え方において死がどのように捉えられてきたか
■一神教では死がどのように考えられてきたかについて
・一神教の世界観では、神様がすべてを創造したと考えられています。そのため、初めの段階では神様だけが存在しており、天地が創造される前には時間や空間もなく、神様だけが存在していたとされています。そして、神様が天地を創造することで、神様と世界が同時に存在するようになったというのが基本的な考え方です。
・また、一神教において人間は他の生物とは異なる存在として捉えられています。それは、神様が人間を自分に似せて直接創造したとされているからです。
・一神教の共通した考え方として、神様がいずれこの世界を壊すという「終末思想」が挙げられます。
・ユダヤ教では、終末とは神様が世界に直接介入して良い世界を作り出すこととされています。一方、キリスト教やイスラム教では、明確に「最後」があり、世界が大きく変化すると考えられています。
・終末が訪れた後の世界では、現在の世界がなくなり、人間だけが存在する状態になるとされています。この時、キリスト教ではこれを「神の王国が来る」といい、イスラム教では「緑園」と呼ばれるようです。これにより、神と共に生きる人々が最後の審判によって選ばれます。
・選ばれた人々は罪を許された者たちであり、その世界に行くことが許されます。一方、許されなかった人々は永遠の炎に焼かれる運命をたどるとされています。
・まとめると、一神教における死の概念は基本的に「死そのものが存在しない」といえるのかもしれません。
・前回話した「別の世界で永遠に生き続ける」というパターンと一致しています。
・一神教で「死なない」と言っているのは、普通に肉体的には死ぬと思っていると思います。ただ、アイデンティティの消滅みたいな概念ではなく、この文脈では「神がそれを任意に復活できる」という話なのだと思います。
だからそういう意味で「死なない」と言っているという解釈かなと思います。
■インドではどのように考えられていたか
・インドでは、基本的な宇宙の理解が因果論で説明されるわけです。
・基本的には因縁や縁起といった出来事Aと出来事Bの関係性の中で世界を考えるものです。物事には原因と結果があるという考え方で、宇宙を見ようとするわけですね。
・原因と結果の関係というのは、私たちが観察できるものです。そして理解も可能です。したがって、不思議なことでも神秘的なことでもなく、むしろ合理的で近代的な考え方に見えるわけです。
・この因果論に対立する考え方が目的論です。哲学的な言葉で言えば、因果論と目的論はアプローチが全く異なる考え方です。一神教は目的論的な考え方ですね。
・一神教で私たちは最後にどうなるかというと、「最後の審判が来る」といった話になります。そこに向かって生きていくわけです。しかし因果論は、関係性の中にしか物事がないという考え方です。最終的な到達点のようなものはないと考えるわけですね。
・ただ、この因果論の難しいところは、世の中の原因と結果の関係が非常に複雑で難解であることです。
・例えば、水を火にかけるとお湯になるといった因果関係であれば観察できます。しかし、子供をどう育てたらどのような大人になるか、といった因果関係はあまりにも複雑で、容易にはわかりません。
・この複雑な因果関係をすべて理解すること、つまり「悟る」という状態に到達することが重要だという考え方です。
・この「心理を悟る」ことに最高の価値を置くという考え方は、インド文明一般、すなわちバラモン教、ヒンドゥー教、仏教に共通しています。
・「心理を悟る」とは、世界をあるがまま、すなわち因果関係の連鎖として認識することです。ただし、これが非常に複雑であるため、悟らない限りそれをすべて理解するのは困難です。
・インドの宗教では、この心理を瞑想を通じて追求します。
・自然科学では、原因と結果を切り分けて観察しようとします。実験の考え方では、私たちがコントロール可能な範囲まで対象を絞り、それを観察します。しかし、この方法では世界全体を理解するのは非常に難しいです。そのため、インドの宗教では瞑想を用いて、全体的な世界観を掴もうとするわけです。
・この瞑想による心理への到達が可能なのは、宇宙(マクロコスモス)と個人(ミクロコスモス)が対応していると考えるからです。例えば、じゃんけんや三竦みなどの関係性が例として挙げられます。
・瞑想によって心理に到達できるか否かは、哲学的な問題として議論されています。インドの文明の興味深い点は、心理に到達できる人もいれば、できない人もいると認識されていることです。ほとんどの人は、因果関係のごく一部しか理解できません。この理解不足の状態を仏教では「無明」と呼びます。
・最後に、ウパニシャッド哲学について触れます。この哲学は、いわゆる「知の爆発時代」や「思索の時代」と呼ばれる時代にインドで広まりました。
・ウパニシャッド哲学では、「梵(ボン)」と「我(ガ)」が一つであると考えます。「梵」とは宇宙の法則を表し、「我」とは私たちの本質的な自己を指します。この二つが同一であるという考え方が、ミクロコスモスとマクロコスモスの関係に通じるわけです。
・悟りを得た聖者は、宇宙と完全に対応している状態に達しているとされます。ただし、その聖者が本物であるかどうかを判断するのは、修行者同士の間でしかわからない、という点が興味深いところです。
・そうすると、大勢の修行者の間で、誰がレベルが上で誰がレベルが下かということが分かり、序列付けられていくわけですね。これはシンプルにとても人間的な挙動であり、同時に科学的な挙動ともいえるでしょう。やはりここでも序列を作らなければやっていけないのだということですね。
・そして、この聖者や覚者というのは、真理は言葉では表現できないというわけですよね。真理を悟ったかどうかは、悟らなければ分からないのです。
・悟ったら悟ったと分かるし、悟っていなければ悟っていない。それゆえ、さきほど言ったトーナメント方式のように、一番強い者が聖者や覚者だと決まるということなんですね。
・この世界観の中でゴータマ・シッダールタという人物が聖者だと思っている人たちのことを仏教徒と呼ぶ、という理解なんですよね。
・ゴータマが悟ったということは、信じるか信じないかの問題になり、信仰するかどうかの問題に移行するわけです。説明できない以上、本当に悟ったかどうかは分からないですからね。
・これまでの話を踏まえて、インド文明における「死」とは何かを考えてみると、まず前提として、宇宙というのは生命ではないのですよね。宇宙は因果関係の連鎖のネットワークであるわけです。そして、人間は宇宙、つまり因果関係に他ならない、という主張がインド文明の基本的な考え方の一つです。
・人間は自分を生き物だと思っているが、これが誤りなのだとされます。人間もただの因果関係の連鎖に過ぎないのであり、自分が命を持っているというのは思い込みにすぎない。真理を悟ることができれば、人間が人間ではないということが分かるのです。つまり、人間は死なないのです。なぜなら、生まれてもいないからですね。
・このように考えれば、人間の生死はこの世界の法則に従って起きるものであり、宇宙の法則を体現することができれば、生きているか死んでいるかは大きな問題ではなくなり、超越できるとされます。
・しかし、人間は自分を生き物だと思い込んでいるため、生きるために悪行をしたり欲望に囚われたりしなければならない。それが仏教でいう「煩悩」なのです。
・本当は生き物ではないにもかかわらず、そう思い込んでいることが気の毒だ、と真理を悟った者が思う。そのような態度を仏教では「慈悲」と呼びます。
・この話を突き詰めると、理屈として理解できても、自分が「別に生きなくてもいいのではないか」といった感覚に陥ることがあり、考えるのが少し怖くなることもあるでしょう。しかし、これは宇宙の法則が決めることであって、私たちの存在に意味があるかないかを私たち自身が決めることはできません。
・このインドの文明について少し付け加えます。聖者たちを排出するためには、社会的な支援が必要なんですよね。社会的に誰かが修行しているということに価値があると考え、この修行者を支えるしかない。これが社会身分として固定化したのがカースト制度ではないかという話です。
・社会的な分業体制として、これを成り立たせているのがジャーティと呼ばれる職業集団です。
・こう考えてくると、輪廻とはどういうことなのかという話になります。輪廻の基本的な概念は生まれ変わりです。私たちは生まれ変わって他の動物や他の人間になるという考え方です。
・インド文明では、これは世界の法則であり、カーストに関わらず機能すると考えられています。カースト制度はこれを肯定しているわけです。なぜなら、カーストが低いところに生まれてしまうと、どんなに頑張ってもこの世で修行するチャンスはないという人が多いからです。そうすると、「私はもう心理に到達できないのだ」と思うわけです。
・しかし、輪廻転生とカーストの話を組み合わせると、「あなたがこの人生で頑張れば、次の人生で修行する人になれるかもしれない」と思わせることができます。だから、輪廻とカースト制度は相性がいいという話になるわけです。時間軸が一人の人生よりももっと拡張されており、ランクアップできるかもしれないという希望を与えることができるのです。
・つまりバラモン教やヒンドゥー教では矛盾した二つの姿勢感が含まれている。
①人間はそもそも生き物ではなく、人間など存在しないという考え方で、これは心理に到達したパターンの考えです。死後は消滅するという考え方に近いです。
②「人間は死んだら別の人間か生物に生まれ変わる」という一般人の考え方です。これは、他の人間や動物に生まれ変わるという考え方に近いです。
この二つの考え方が、インドの宗教では基本的に共存しているということになります。
・またこのインド文明の基本的な考え方から出てきたのが仏教です。仏教は基本的にはゴータマ・シッダールタという人物が悟った人かどうかを信じることが仏教の教えの核心です。
・そうなると、悟った人や聖者と、ゴータマ・シッダールタ、人々が救われるかどうかという三つの問題が出てきます。この三つの問題に関して様々な立場が現れるため、初期仏教、上座仏教、大乗仏教、密教という四つのパターンが出てくるのです。