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読書老子の朝日記No.3
コンサマトリー的に生きるのが幸せに生きるコツだ。
この考え方を知ったのは、Phaさんの著書『しないことリスト』においてだった。共感したので少し説明しよう。
コンサマトリー(自己充足的)的に生きるとは、何か目的や目標を定めて生きるのではなく、生きること自体を楽しむことだ。
「生」自体を楽しむ。
その行為自体を楽しむ。
それがコンサマトリーな生き方だ。
趣味や読書などにも、それは言える。
お金を稼げるとか、知識が増えるとか、見栄えが良いとか、そういうことではなく、趣味を楽しむこと、読むことを楽しむこと自体に目的があると考える。
生活の中にコンサマトリーな部分がないと人間は持たないという。同感だ。
これは生き方論なので、適用範囲は広い。
例えば、執筆についてもそうである。
売れ行きが良く、ヒットするとか、たくさんスキが付くとか、評価が高くなるとか、多くの人に読まれるとか、ではなく、書くこと自体を、表現すること自体を楽しむ。
散歩や運動についてもそうである。
健康になれるとかではなく、歩くこと自体を楽しむ。体を動かすことの気持ちよさ自体を楽しむ。景色を味わうこと自体を楽しむ。
友情についても同じだ。友情自体には利害関係や目的はない。
会って話すこと、共に時間を過ごすこと自体を楽しむ。
睡眠にも言えるかもしれない。
眠ること自体を楽しむ。寝ないと健康になれないことはいったん忘れ、眠りの世界に行くこと自体を楽しむ。
歴史上の知の巨人の執筆活動も、もしかしたらコンサマトリーな部分が大きいのかもしれないと思ったりする。
きっと学ぶことや知ることや考えること自体の楽しみが失われた知的探求は形骸化してしまい、みずみずしさを失うのだろう。
コンサマトリーな生き方は、ストア派のコントロールの二分法とも、相性が良い気もする。
結果を得ることや成功や成果をあげること自体は、コントロール外の部分の方が大きい。
自分の行為に、コンサマトリーな部分を確保することで、生きがいや心の余裕を確保することにもつながるのだろう。
私は、大きな業績を残したり、世俗的に成功すること自体を追求するのではなく、コンサマトリーに生きることを意識したい。