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一日一歩ずつによって知的進歩を保つことの意味
一か月ほど前に次の記事を公開しました。
その記事では、一日最低でも一ページ以上を読むことで、読書習慣を維持できる、という主旨をお伝えしました。
今回の記事では、さらに深く振り下げて一日少しずつの学びの積み重ねで「知的進歩」を保つことの意味を少し考えます。
知的進歩。
それはよりよい人間へと成長するためにストイックな努力を欠かさず、日々の精神的向上を保ち、自らの成長を日々喜ぶことであると解釈できます。
上の記事では、一日一ページによって読書習慣を保つことを提案しましたが、それはつまり読書習慣を生涯保つことによって「知的進歩」を絶やさないことであると言えます。
しかしながら、ストイックな努力というと、なんだか苦しいようなイメージがなくはありません。
けれど、私がイメージする「知的進歩の維持」とは、地道な努力という要素は確かにありますが、それだけではなく、フロー状態の爽快さ、生活の一部としての楽しみや生きがいといった持続可能で身体のペースや呼吸のリズムと合った、それなしではいられないような歯磨きのように習慣化された営為を意味します。
つまり、日々の生活での学習や軽い運動など、自らが向上し、成長につながる行為を歯磨きのように習慣化することで、「知的進歩」を絶やさないようにする、ということが今回の記事のテーマ。
知的進歩を維持するための習慣を維持し、定着させることで、人生の質も着実に高まりますし、楽しみも増える。
では、そのような知的進歩を絶やさない習慣には、具体的にどのようなものがあるでしょうか。
私が考えるに、それはフィジカル・メタフィジカルの両方の側面で考えられます。
すなわち、肉体的・身体的な活動の維持と精神的・情報的活動の維持の二つにまとめられます。
肉体的・身体的活動とは、運動習慣のことです。
ところで、私自身、スポーツをすることがめったにありません。
野球は一度もしたことがなく、サッカーは子どもの頃に嫌々やっていたことがありましたが、全然楽しめなかった。
小学生以来、スポーツという類の運動はしていません。
しかし、最近になって考えが変わってきました。
『思考の整理学』の著者で、知の巨人と称される外山滋比古先生は、次のように述べています。
散歩をスポーツに
いろいろなスポーツがどんどんプロ化し、つまり本当のスポーツでなくなろうとしている現在、わたくしは散歩をスポーツにしたいと考えています。ヨーロッパの哲学者は、古くから散歩を日課とする例がすくなくありませんでした。スポーツとしての散歩は、哲学者を生むためのものではありませんが、フェア・プレイの心、独自の思考、不屈の意志などをはぐくむことができます。
散歩をスポーツとして捉えられる。
小学生の時の自分が知ったら驚いたに違いありません。
散歩なら、スポーツクラブに入会する必要もなく、誰かと競うこともありません。その上、子どもを含め、スポーツが苦手な人はもちろん、運動自体に抵抗のある人でも、気軽に、手軽にできます。
そして、スゥエーデンの精神科医、アンデッシュ・ハンセン博士は、メンタルヘルスの維持のために、軽い運動を歯磨きのように習慣化することを勧めています。
哲学者が古くから散歩を好んだのは、豊かなアイデアの源泉であり、心の豊かさにまで大きなポジティブな影響があったからだと考えられます。
つまり、散歩には、メンタルヘルスの維持と、知的生産・知的活動の活性化の二つの意味があります。
外山滋比古先生は、次のようにも述べています。
歩く習慣を身につける
新しい思考をするためには、机に向かっていてはいけない。外へ出て、あてどもなく歩いていると、新しいアイデアが浮かぶ。いつもというわけではないが、他のことをしているときより、はるかにしばしば、アイデアが湧いてくるような気がする。散歩に出るときは、メモの用紙とペンか鉛筆をもって出る。
小学生から大学生まで、散歩も勉強の一環だとする認識が広まったらいいですね。
まとめてみます。
知的進歩を絶やさないための習慣の身体的・肉体的活動は、「散歩の習慣化」。
では、精神的・情報的活動はというと、読書習慣を保つこと、になります。
でも、今日は疲れたのでまた次回に譲ります。
ご清聴ありがとうございました。つづく。