恐竜の強さと滅亡。ラッセルの思想から弱さの意義を少し綴る。
20世紀最高の知性といわれる哲学者、バートランド・ラッセルの『幸福論』の思索の一部を少し膨らませてみる。
恐竜はなぜ滅んだのだろう。2億年近くにわたり繫栄し、我が物顔で地上を跋扈した恐竜はなぜ滅びたのだろうか。
それは、最強だったゆえに滅んだのだ。
その強さゆえに滅んでしまった。
力(POWER)では、当時の世界で恐竜に敵う生物はいなかったかもしれない。
ひ弱な存在だった哺乳類は、弱かった。
だが、しぶとく生き抜いた。
昆虫もその点では共通点がある。
物理的な力では、弱い存在だった哺乳類や昆虫は、たがいに協力し合う社会を築いて支配者滅亡後の世界で、自らのニッチを開拓した。
弱い哺乳類は、微力ながらだんだん力をつけ、やがて猿人が登場した。
この猿人も弱かった。
サーベルタイガーに食われてばかりだったのである。
あるとき、猿人の脳に閃光がとどろいた。
人類が誕生した。
人類もはじめは弱かった。
だが、協力して社会的な集合知を蓄えていくにつれて、だんだん強くなってきた。
文明が誕生してからは知識が保管され、支配階層が統治のための道具として用いた。
知識は秘宝であり、支配者の道具だった。
200年前に画期となる臨界点が訪れた。
動力革命・産業革命の起動である。
これによって、人類は、生態系において最強になった。
地球誕生以来のどんな生物さえ手の届かなかった物理的に莫大なパワーを手にしたのである。
この時点で人類はあの長者、恐竜をも超えた。
だが、恐竜と同じくその桁外れの強さゆえに弱くなった。
地球の気候を変えるほどバランスを崩したが、これは逆に人類に災いした。
(人類をここまで繁栄させた知識)はPOWERだったが、今日では、皆が道具として使えるようになった。
スーパーインテリジェントなAIの出現によって、人類が繫栄するに至った知は力(POWER)なりの構図も変わるだろう。
人間の知性が、人間の特権ではなくなる。
それは、人類が、自らの強さを追求することにブレーキがかかることにもなるのだろう。
これからのスローダウンの時代では、個々人の能力や賢さはそれほど(あるいは全く)重要ではなくなる。
スーパーインテリジェントな人工知能が、そうした面で圧倒する存在となり、代わりになるからだ。
そうしたAIは知識が道具であるように、あくまで人類の道具だ。
だから、どんな目的に使うかが重要になってくる。
人類の最強性に奉仕するなら、脆弱性と滅亡のリスクを増すことになる。
人類の弱さをカバーし、ケアするなら、賢明な手段になるだろう。
今日の学校教育は、19世紀的な賢さの象徴であるとある歴史学者は言った。
その19世紀的賢さは、能力主義社会で快適に暮らすにはそこそこ便利だが、スーパーインテリジェントなAIの出現による新たに進行する産業革命によって、そうした能力主義社会は根底から覆るから、19世紀賢さも過去のものとなり、快適さが減じるか、生きづらさが減るか、それはわからない。
今日の社会では、いまだ強さを誇示し、弱さを過度に隠そうとする恐竜文化のような風潮が残っているかもしれない。
(ぼくが子どもの時に体験した受験文化や一時期の学校はそのわかりやすい例だった。)
賢さ、知識、財産、筋力、容姿、あげれば多そうだが、いろいろなものがステータスとして誤認される。ときには無意識に暴力をふるう。
広告は社会的な暴力だとロルフ・ドべリは述べていた。
強さを見せつけ合う恐竜文化に染まったところからは距離を置きたい。
ぼくはSNSやテレビを日常で使うことがほとんどないから、基本、心が平和だ。
街に目を向ければ、自然に目を向ければ、和みのある風景が広がっている。
バーチャルな世界はあくまで井の中の蛙だ。
恐竜文化も、世界からしたら人々の一部なのだから、アクセスしないようにすれば見ることはない。
個性の豊かさは弱さを内包した豊かさのことだ。
AIは不完全。どんな人も例外なく不完全。
だから、老子のように肩の力を抜いて生きたい。
補足。最近ぼくは、知識や知性を道具だとみなすプラグマティズムの思想に少し関心を持っている。
以上に綴ったことは情報収集によるあくまでぼくの思想のスケッチである。記述自体はエビデンスには基づいていない。