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展覧会に行ってから考えたこと

「貝類展」(科博)に一人で行ってきました。
今回はその「感想」は書きません。
その展覧会から帰ってきて考えたことについて書きます。

「貝類」という種族が「自足する心」を持っていたかどうか、というと疑問だった。
人間に限らず、生き物は地球に生きる上で、環境が激変するなどして存亡の危機に立てば、自足していたらもしかしたら滅びていただろうし、実際滅びただろう。
「貝類」という種族は多種多様で、進化史も古く、全体として見たら大いに繁栄している。
人間と肩を並べるのかもしれない。
人類が一見すると自足する心と矛盾しているように思えるのは、生存欲求や生存を求める知があるからこそかもしれない。
近代科学の誕生もそれと関係しているのかもしれない。
際限のない欲望は生存欲求のあらわれで、結果、繫栄をもたらしたが、それがなかったら滅びていた可能性もなくはないとも思える。
人間が自らを自然の制約から解放しようとするのは、開放しなければ生存できなかったか、生存しにくかったからだとも考えられる。
結局、人類の繁栄も貝類の繁栄も本質はそこまで変わらないようにも思える。
アントロポセンになっても、この先、人類が滅びて貝類は繁栄することも大いにありうる。そして、そうなっても貝類もいつかは滅びるのだろう。
人類はよりよく生きるために自然の制約を解き放ち、ここまで文明を発展させ、自然の生態系を破壊した上で繁栄したが、いまだ自然の制約から自由ではもちろんない。
生き物は自足していても、自足していなくても、どのみち滅びるという捉え方もできる。
貝類が自足していたのに滅びるなら、人類が自足していて滅びない理由はないのではないだろうか。すべては自然の力。
人類も貝類も、他の生き物も同じ。
繁栄するときには栄え、滅びるときにはそうなる。
生きかたとしてわたしは自足する心を大事にするけれど、そもそもそれはそれ自体で完結しているものだ。
自然をコントロールするという考え方が傲慢なら自然によって自らが滅びるのを防ぐ、コントロールするという考え方も傲慢になる。
啓蒙主義は傲慢だろうか。
この両者の考え方に差はない。
貝類も滅びるくらいなら自然をコントロールしたいかもしれない。
人間も滅びるくらいなら自然をコントロールしたいだろう。
でも、結局、どの生き物も、もちろん人間にもそんなことはできないのだ。





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