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正しいジャーナリズムの欠如

先日、こんなnoteをアップしました。

2010年に出版された漫画本のコラム(中央官庁で働く現役キャリア官僚が筆者)からの引用でした。

筆者は同コラムで「正しいジャーナリズムの欠如こそが、日本の政治のこれまでの停滞の原因だ」とも述べています。

どういうことなのか、詳しく見ていきたいと思います。以下、またコラムの引用です。



政府発表を垂れ流すマスコミ


日本のマスコミは、報道偏重体質。

各社の担当記者は、役所の建物内の一室に記者クラブを設けて、そこに詰めている。

彼らは、省内で催される大臣記者会見での質問や、役人からのプレス説明で情報を収集する。

記者クラブという排他的な団体に所属する大手マスコミは、政府の公式発表を毎日のニュースとして報道すれば仕事になる。

→政府を監視するというよりは政府発表を報道する機関になっている。

→ネット系メディアによる記者クラブ批判は、的を射ているというのが正直な実感。

欧米では、こうした時事発表ものであれば、通信社と呼ばれる時事報道に特化したメディアが対応する。

役所など現地取材は通信社に任せて、ジャーナリストは深い調査分析をして記事を練るという役割分担が欧米にはある。

ところが日本では、時事通信社や共同通信社などの通信社のみならず新聞記者もテレビの報道記者もが役所に詰めていて、調査分析は疎か。

通信社よりも新聞社のほうが人件費が高いのが一般的で、日本の新聞社は人件費面でもジャーナリズム面でも非効率な組織運営と言える。

そうした高コスト構造を、記者クラブという参入障壁を設けることで、カバーしていると批判されても反論できないと思う。日本にジャーナリズムは不在。

読者受けするコンテンツ=バッシング


マスコミといっても、テレビ、新聞、雑誌、ネットと様々なメディアがある。

メディアごとの読者層の違いに合わせて、記事の内容やスタイルも様々。

しかし、全てのメディアに共通しているマスコミの命題、それは「注目されなければならない」こと。

マスコミも営利企業である以上、収益を上げなければならない。

そのために、ジャーナリズムに徹するよりも、読者受けするコンテンツは何かを追い求めることになる。

読者受けするもの。それは分かりやすいもの。

時間をかけた分析が必要な分かりにくい現実論ではなく、すぐに「こいつは悪者だ」と判断できる分かりやすさ。

実際、このコラムの執筆でも、正確な議論よりも分かりやすい議論を要求された。

マスコミには「悪者」が必要。特に悪者扱いしても面倒が少ない悪者が。そして、それは「清く正しいのが当然」な社会的権力者。

だから、公正であることが当然な政治家・官僚、社会的責任を持つ大企業、「聖職者」である医者・教師が、マスコミのターゲットになる。

役人人生とはセミの一生のようなもの⁉


私は疑問に思う。マスコミは政府を批判するのが目的化してはいないか?

もちろん、権力に対する批判はジャーナリズムの本質。でも、ジャーナリズム不在の日本のマスコミの報道は、単なるバッシングでしかない。

勉強不足な記者が官僚によってコントロールされているという批判も真実だが、

同時にマスコミによる揚げ足取りのバッシングを恐れて、官僚が「ことなかれ主義」に陥っているのも真実。

マスコミにいったん叩かれ始めると制御不能となり、当初の目的を果たせなくなるので、

最初から隙無く万全の理論武装をしておくことが一番効率的だと考え、

非効率としか思えない完璧な無駄詰め作業に邁進せざるを得ない同僚の姿を深夜の霞が関ではよく見かける。

「ことなかれ主義」の官僚にできることなど知れている。私は自分が役人を志したときに、某省庁の面接で言われた言葉が忘れられない。

役人人生はセミの一生のようなものだ。
若いころから、ずーっと自分を殺して、
セミの幼虫のようにひたすら待って頑張るんだ。

そして、最後に事務次官として、
残り2週間の命で思いっきり鳴くんだ。

この処世術はたしかに事務次官になるのが目的の人には正しいのかもしれない。

でも、ずーっとセミの幼虫としてじっとしていた人が、最後に鳴くことなど本当はできないと思う。

改革を志して官僚になった人間は若いころから鳴く練習をすべき。目立ってなくても、鳴こうとしている官僚もいる。

そして、私も鳴こうと努力している。

マスコミが、何かをやろうとする人の揚げ足取りではなく、保身に走る人の不作為を追及すれば、鳴こうとする官僚は増えるはず。

筆者は「私はセミにはならない!」と断言しています。この決意を持ち続けてくれる人が増えることを願ってやみません。


☆出典☆
『エンゼルバンク 13』講談社



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