人生じゃない、捨てたもん
今まで、私は多くのものを捨ててきました。
食べのこし、洋服、CD、スケボー、座椅子…
意識してはいませんが、人付き合いも減少の一途…
お気に入りを手放すときの、葛藤、喪失感、開放感…
物心問わず、人間は生きていくうえで何かしらを捨てています。
皆さんは今まで、何を捨ててこられましたか?いくらでも、出てくると思います。
そして、これからも多くのものを捨てていくでしょう。
「一つのものを大切に」「SDGs」「一生モノ」、表現は数多くあれど、物事を長く大事に扱うことは、多くの人が美徳と感じると思います。
ですが、捨てないを徹することは不可能ではないでしょうか。物理的に溢れるということもありますし、手に入れる対価としての手放す、もあるでしょう。極端な話、二酸化炭素だって糞尿だって捨てているわけですね。いや、苦しいのは重々承知していますが(笑)
捨てること/手放すことはイコール生きていること、と言っても過言ではないのではと、今回の並べ替えで思いました。
捨てたもんは数限りなく、永遠に湧き続ける。生まれ落ちた瞬間から「産声」という空気を捨てる方が、ほとんどのことでしょう。「涙」という水と塩を同時に捨てる方も多いと思います。私まだ子供はおろか、妻さえおりませんが…。
衣食住、生活するうえでありとあらゆるものを必要とし、獲得します。と同時に、不要となったものもまた必ず存在し、それは捨てることでしょう。売る、譲るなどもまた、一つの手段といいますか。その行為の目的は捨てる・手放す(ことによる安定、安心の獲得)なのかなと。言うまでもなく、獲得と放出は不可分でしょうし、「取捨選択」という言葉の本質なのでは、と愚考しております。
「捨てるものなんかないよ」とおっしゃる方も多くいらっしゃるでしょうが、何かしらは必ず捨てていることと思います。生きている以上、捨てている。そう思います。
故に、いよいよもって捨てるもんが無くなったとき、捨てつくして捨てきったとき…その時こそ、「人生」を捨てるのだと思います。
「鼬の最後っ屁」なんて言いますが、(少なくとも)人間が最後に捨てるもの、それは「人生」でしょう。
全くもって、意味の分からないことを考察しているこの日記ですが。私がこの活動で獲得しているものは?手放しているものは?前者は「考えるという幸福と、時間という贅沢」、後者は「動くという幸福と、時間という日用」となるのでしょうか。
『人生、捨てたもんじゃない』
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