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叔父のオルゴール

私の父方の叔父についての話になります。

母は事あるごとに、幼い頃に両親を亡くし不遇な幼少期を送りながらも、地道に職人としての勤めに励み家族を支えている父を褒め讃えていました。
一方で若い時分に中華料理人としての修行を辞め、長らく行方知れずになった末、今宮界隈でひとり日雇い労働に励んでいた叔父のことを、叔父みたいになるなと私たち姉妹に言い聞かせていました。

数年前、姉は私に言いました。
「何もかもなくし、何もかも奪われ(遺族年金を親戚に使い込まれて、父兄弟は食べる弁当もなく、その果てに子どもふたりで空腹の中生きることに。近隣の高齢女性が見かねて食事を運んで下さったそうですが)過酷な状況の中で立ち上がれた父が稀なのであって、叔父みたいなのが普通で何も特別に変わってはいない」と。
私も叔父と自分に似ている部分があるとは言え叔父を発達障がいだとは思ったことはなく、むしろ考えかたに柔軟さのなかった母がそうだったのではないかという疑念を持っています。
(医師じゃないので、はっきりとしたことは分かりませんが)

話は子ども時代に戻って、叔父は姉が生まれたくらいの頃から私が小学校高学年になるまでの10年以上の間、行方不明になっていました。
叔父の安否が分からないことで、繊細だった父の眠れない日々が続いたそうです。
私も母からそのようなことを聞かされながらも、父に本当は弟がいるということに対してはあまりピンときていませんでした。

困っているのなら助けたい。
父の強い願いから本格的な捜査を始めて間もなく、叔父が西成で見つかりました。

ある日、私は叔父と初めて会うことになりました。
父が叔父に何か届け物をするために、(父が手続きを手伝って転居した)新しい叔父の家の前に車を停めたほんの一瞬の間でした。

私は幼い頃から遊んでもらっていた母方の親戚とは違いどう話してよいか分からず戸惑っている中、叔父も言葉少なに私にきれいな家具調のオルゴールを手渡してくれました。

小学校高学年になる私は子どもらしく喜ぶということは出来ず、叔父が私にプレゼントをして今日食べるものはあるのだろうかと考えました。
父は私に言いました。
それくらいかけがえのない存在と思ってくれているのだと。

叔父の想いのつまったオルゴール。
今でも実家の姉妹が使っていた部屋に大切に置いてあります。

私はたまに叔父の住んでいた界隈を運動がてら歩くことがあります。
寺の敷地内の展望スペースからは大阪市内の風景が臨め、静かで緑豊かな場所です。

一方姉は叔父が仕事を受けていた界隈で土日に炊き出しの活動をしていますが、やはり叔父のこともよく理解していた姉のこと、現実が分かっているからだと思います。

今は父も母もそして叔父も遠い場所にいて、私も大病からひと山を越えましたが、どこかで姉妹ふたりを見守ってくれているのでしょうか。

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