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【第20話】湧水の起源

木曜日。
オッキアーリに行くと小学4年生のマナトがいた。
地球儀をくるくる回しながら,ちらりと僕の顔を見て「タオちゃんは風邪でお休みなんだって」と少しつまらなそうに言った。

僕は彼の横に腰を下ろして地球儀を持ち,ここが日本,ここがアメリカだよ,と一緒に指さしながら遊んだ。  
「アメリカって大きいね。」 
「でももっと大きな国※1もあるよ。探してごらん。」
「わあ。ロシアってでっかいね。日本が一番小さいの?」
「いやいや,日本より小さい国※2の方が多いんだよ。」
「この線はなあに。」
赤道※3っていうんだよ。」
「あ,ホントだ。書いてある。ここに行くと赤い線があるの?」
「実際に線が引いてあるわけじゃないよ。赤道が通過する※4ケニアとかでは目印に道路に赤いペンキで線を引いてあるところもあるらしいけれどね。」  
「じゃあ何色なの。」  
「別に色はついていないよ。」
「じゃあ何で赤なの?」   
「昔の中国で赤道を書く時に赤い色を使って表現していたらしいんだけど,実は赤っていうのはね,単なる色を表すだけじゃなくて,混じりっけのない,明らかな,という意味もあるんだよ。赤ちゃん,とか赤っ恥,って言うよね。そういう意味も込められていると思うんだよね。」 

領収書の整理をしながら聞いていた真弓さんが「へえそうだったの?」とこちらを向いて言った。
「なるほどねェ。水野君よくそんなこと知ってるのね。」
「いいえ,勝手な推測です。高校生の頃,雑学の本を暇つぶしに読んでたんでヘンな蘊蓄だけが増えちゃったんです。何の役に立つか分からないんですけど。」
「ああ,そうなの。でもそれはそれでいいのよ。吸収できるうちはどんどん吸い込んでおくことよ。今はたくさん雨を降らせることが大事よ。」
「雨?」 

若かりし頃,劇団に所属していたことのある真弓さんは,椅子から立ち上がり,窓から差し込む光線をたぐり寄せるかのような不思議な動作をして言った。
「あなたは森。森には毎日たくさんの雨が降る。あなたが毎日耳にする言葉の一つ一つが実は雨なの。言葉だけじゃないわ。匂いや手触りや味,五感で感じるものすべてが雨なの。降った雨は一度地面にしみ込んで見えなくなる。そして,長い眠りのあと,ふもとの岩陰からきれいな湧き水になって出てくるの。眠っている時間は気が遠くなるくらい長い時もある。でもね,森に雨が降っているかぎり,湧き水が枯れることはないの,決して。大切なのは雨が降り続けること,いや,いかに雨を途切れさせないか,ってこと。ほんの少しでもいいの。毎日花に水をやるように言葉の雨を降らせることが大切なのよ。あなたから出た言葉の湧き水は,また誰かにとっての雨になってぐるぐると巡っていくのよ。」 

 ほんの一瞬,真弓さんと中島先生がダブって見えたような気がした。  
「さすが。詩人ですね。」と僕は言った。

真弓さんはふっと息を吹き,素に戻ったという表情で少し微笑みながら,
「また,そんなこと言って。あなた,私のことちょっとヤバいオバさんとか思っているでしょ?」と言った。
「そんなことないです。ご夫妻のことは本当に尊敬してます。」    
 
森林にはさまざまな役割がある。
森は多くの生き物の生息域となり,木の実や山菜など食料や薪炭材の供給地にもなる。
二酸化炭素を吸収し酸素を作る,土砂崩れなどの災害を防止する。

もう一つ重要な役割は水の涵養だ。
かんよう,と読む。
涵という字は、見慣れない字だけれど「育てる」というような意味だ。
例えば,ハイキングにでかけて谷間の水をコップにすくって飲んだとする。
コップの水は元を辿ればもちろん雨だ。
たいていは数日~数週間前に降った雨が元になっているけれど,真弓さんの言うように「長い眠り」のあとようやく目を覚ます水もある。

森の土は巨大なスポンジである。

スポンジの保水力には僕らの想像以上の驚くべき力がある。
コップ1杯の水の中には江戸時代に降った雨も数滴混じっているらしい。
水を守るということと森を守ることはほぼ同義だ。
天然水を販売するメーカーは森林の保護に力を入れるのが常識だ。
 
「そうだ,来週タオちゃんと一緒に病院にお見舞いにいってくれないかしら?」と真弓さんが言った。
「お見舞い,ですか?」
「本当は今日行く予定だったんだけど,タオちゃん風邪でお休みで,来週だと私が都合が悪いの。」
 入院しているのは塾に通っている高校生の女の子だという。
「タオちゃんはいつも〝お姉ちゃん”って呼んでいて,まるで本当の姉妹みたいに仲が良くてね。もう入院してからだいぶ経つのよね。」
「分かりました,来週ですね。」 
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※1 面積の大きな国
①ロシア(1709万㎢/45) ②カナダ(998万㎢/26) ③アメリカ合衆国(983万㎢/26) ④中国(960万㎢/25) ⑤ブラジル(851万㎢/22) ⑥オーストラリア(769万㎢/20) ⑦インド(329万㎢/9) (最後の数字は日本の面積を1としたときのおよその大きさ/日本の20倍以上の面積を持つ国は6つある)。1位から7位の国は,太平洋に数字の「3」を大きく描くとその書き順と同じになるので覚えやすい。
 
※2 日本より小さい国
日本の面積は約38万㎢で,国連加盟国(193ヵ国)中,60番目である。順位で言えば上位3分の1以内にあるので決して〝小さい国”ではない。世界には,東京23区(627㎢)よりも狭い国が18ヵ国も存在する。一番小さいのはイタリアのローマ市内にあるバチカン市国(0.44㎢)で,東京ディズニーシーよりも小さい。二番目に小さなモナコ(2.02㎢/F1グランプリやカジノで有名)は皇居とほぼ同じくらいの面積である。
 
※3 赤道
緯度0度の緯線。長さは4万km。北極点と南極点を結ぶ経線を引き,そのちょうど中間の地点を結んだ線。地球儀を使えばココってすぐに分かるけれど,厳密に言葉で定義しようとすると難しい。「地球の大円(球の中心を通る平面と球面が交わる場所)のうち,その面が地軸と垂直方向に交わった円の円周部分」「春分と秋分に太陽が真上にくる地点を連ねた線」等,様々な表現が考えられる。
 
※4 赤道が通過する国 
アフリカでは,ケニア・コンゴ民主共和国など7ヵ国,南アジアではインドの南西に位置する島嶼国モルディブ、東南アジアはインドネシア1ヵ国のみ(赤道直下のイメージの強いシンガポールは北緯1.3°である),南米大陸ではエクアドル(⇒スペイン語で〝赤道”の意味)・コロンビア・ブラジルの3ヵ国。太平洋の島嶼国であるキリバスなどが該当する。是非地図帳で確かめてみよう。 
 

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