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【第4話】ロスグラシアレスの午後(中島ノート②)

カラファテ※1はこぢんまりとして感じの良い街だが,風が強すぎる。
砂埃が何度も目に入る。
けれど、空には雲1つない。
紺碧の空と身体が飛ばされるほどの強風,意地悪な組み合わせだ。
宿のオーナーは「これがパタゴニアなんだよ。」と笑った。  
 
8時に迎えのバスに乗る。
観光客でほぼ満席だ。
アジア系は俺一人だった。
荒涼とした黄土色の草原地帯をぐんぐん進む。
車内でロスグラシアレス国立公園※2の入園チケットが配られる。
12時前にペリトモレノ氷河※3に到着。
途中の休憩箇所から見た氷河は青白い氷の絨毯のようだったが,近づくと表面に複雑な起伏があるのが分かる。
 
ペリトモレノは凄かった,という森本さんの言葉に嘘は無かった。
森本さんは昨年ジンバブエ※4で偶然出会った日本人で,60歳で定年を迎えてから世界90ヶ国を旅したという強者だ。
ザンベジ川※5を渡る船の上でビールを飲みながら,思い出深かった光景はどこか尋ねると,真っ先にここの話をしてくれた。
 
目の前に高さ70m,幅2㌔もある巨大な氷の河が横たわっている。
奥行きは十数㌔もあるらしい。
パタゴニアは世界で3番目に大きな氷河地帯だ※6。
近くでみるとさらに青い色が濃く見える。
氷河は長時間圧縮されると気泡が抜け透明になり,波長の長い赤い光を吸収するため青くなる,という。
 
目前の光景が圧倒的すぎると,リアリティを飛び越えてこれはひょっとしてCGなんじゃないか,という疑心暗鬼な気分にさえなる。

氷河の右手奥の末端から小さな欠片が湖面に落ちる。
小さな? いや違う――。
実際にはビル1棟分くらいの巨大な氷の塊なのだが,離れているから米粒ほどにしか見えないのだ。
湖面にみるみる半円状の波紋が広がっていくのが分かる。
遠すぎて音は全く聞こえない,
と思った矢先,落雷が落ちたかのような衝撃音がメキメキズドーンと響いてくる。
そう,雷と同じで音が数秒遅れでやってくるのだ。
バーチャルな世界へ入りかけていた俺を現実に連れ戻す衝撃音だ。     
 
あっけにとられている俺を土産物屋の親父がニヤニヤ見ている。
「お兄さんいつ来たの?」
「いま着いたばかりだよ。」
「ああ,惜しかったね,昨日だったら良かったのにね。」
「どうして?」と聞くと,親父は氷河の左手を指さした。
湖面にたくさんの氷の欠片が浮かんでいるのが見えた。
「昨日,久しぶりに大きい崩落があったんだ。大騒ぎだったぜ。カメラマン達も喜んでたよ。」
 
パタゴニアでは2月(夏)になって気温が上がると,氷河が少しずつ溶けて小さな欠片がポロポロと剥がれ落ちるようになる。
そして数年に一度くらいの頻度で,幅100mほどの氷河が一気に崩落し,湖面に津波※7が出現し氷河湖の周辺に押し寄せる「大崩落」が起こることがある。

氷河を間近に見ることのできる展望台にはハイビジョンカメラを構えダウンジャケットを着こんだ男達が三脚を立て椅子に座り,いつ起こるとも分からない決定的瞬間を待ち構えている。
といってもほとんどが腕を組んだまま居眠りをしているのだが・・・。    
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※1 エル・カラファテ。
アルゼンチン南部サンタクルス州の街。パタゴニア地域に多数存在する氷河湖の一つアルヘンティーノ湖に面する。人口21900人(2015年)。世界自然遺産ロス・グラシアレス国立公園の観光の玄関口。パタゴニア地方に聖域する低木が街の名称の由来。この低木の実は現地のレストランでデザートとして提供されている。
 
※2 ロスグラシアレス国立公園 
1981年世界自然遺産に登録された国立公園。パタゴニア観光のハイライトの1つ。ロス・グラシアレスはスペイン語で氷河(複数形)の意味。 
 
※3 ペリトモレノ氷河
ロス・グラシアレス国立公園内に数多く存在する山岳氷河の中でも1,2を争う人気スポット。アイゼンを付けて氷河の上を歩いたり,観光船で先端部に近づいたりするツアーが人気。地球温暖化の影響で縮小する氷河が多い中、氷河の後退がみられない珍しい氷河の1つでもある。
 
※4 ジンバブエ
アフリカ大陸南部にある内陸国。面積39万(日本とほぼ同じ),人口1517万人(2022年)。首都はハラーレ。旧イギリス領で,1965年に少数白人政権によるローデシアとして独立するが,人種隔離政策を推し進めたため反発を招き,1980年黒人国家ジンバブエとして独立した。干ばつや欧米諸国による制裁で経済は混乱し,近年はハイパーインフレで話題となった。公用語は英語。 
 
※5 ザンベジ川
コンゴ川・ナイル川・ニジェール川に次ぐアフリカ第4の河川。アフリカ南部を流れモザンビーク海峡でインド洋に注ぐ。ザンビアとジンバブエの国境(自然国境)にもなっている。国境にまたがるビクトリアの滝は1989年世界自然遺産に登録されている。
 
※6 世界で3番目に大きな氷河地帯
1位は南極地方(1398万㎢),2位グリーンランド(180万㎢),パタゴニアの氷河はこの2つに比べるとまだ小規模で,氷河の面積は南米全体でも2.6万㎢ほどである。 
 
※7 津波 
2011年の東日本大震災の影響で「津波は(すべて)地震によって起こる」と我々は思いがちであるが,地震以外の原因で発生する津波もある。火山の噴火や氷山の崩落による津波がそれである。2018年インドネシアのスンダ海峡で起こった海底火山の活動によって発生した津波では死亡者が数百人にも及んだ。日本でも江戸時代(1792年)に長崎県島原半島の雲仙岳の大噴火で山体崩壊が発生し,島原湾に崩れ落ちた山体の一部によって発生した津波は湾を横断し対岸の肥後(熊本)まで達し,合わせて1万5千人を超える犠牲者を出した(島原大変肥後迷惑と呼ばれる)。 
 
 
 
 
 
 
 

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