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【第21講】広がる境界の誕生

翌週,少し早めにオッキアーリに行くと,玄関口でタオが「あ,来た来た。ナオミ,行こう。」と走り寄ってきた。
僕は靴を脱ぐ間もなくタオと病院へ向かった。

入院しているのは,高校2年生の女の子で滴という名前だった。
滴と書いてしずくと読む。
彼女は優秀な成績で都立の進学校に入学したが,病気の療養のため休学し現在も入院中だという。

真弓さんにどんな病気なのか尋ねたけれど,複雑な病名で忘れてしまった。
確か心臓の病気だったはずだ。
岩永さんが商社マン時代に最も親しかった同期の堀さんという人の娘ということだった。

滴ちゃんとは何度か塾で顔を合わせたはずだけれど,あまり覚えていない。
僕がバイトを始めてすぐに彼女の入院生活が始まったからだ。
 
タオと一緒に四谷から東京メトロ南北線に乗り,東大前駅で降りて根津神社の近くにある大きな病院まで一緒に出掛けた。

4人部屋の窓際のベッドの上で,滴ちゃんはトレーナー姿で何かを書いていた。
僕の顔を見て最初怪訝そうな顔をしていたが,タオが駆け寄ると薄黄色のカチューシャを付けて笑顔でハグをした。
ラベンダーの香りが微かにした。

「お姉ちゃん何してたの?」
「これ? クロスワードパズルよ。」
「へえ,面白そう。」
「でも,だんだん難しくなってきて,さっきから全然進まないの。」
僕も見せてもらった。
彼女が悪戦苦闘していたのは,レベル71「世界と日本の都市」のページだった。
横のカギの5文字が分からないという。
「あ,こういうのナオミ得意でしょ。」とタオがはしゃぎながら読み上げた。
「『コロラド州デンヴァー※1のニックネーム。□□□□□シティ。』だって。ナオミ分かる?」
 頭の中にロッキー山脈の地図が浮かんだ。
「えーと『マイルハイ』かな。たぶん。」
「えー,すごい。」と滴ちゃんが目を丸くした。
「お姉ちゃん,ナオミはね,何でも知ってるんだよ。すごいでしょ。ナオミがいるとね,スマホがいらないんだよ。」とタオは誇らしげに言う。

おいおい,いつから僕は君の電子辞書になっちまったんだい,と僕はため息をつく。
僕はリュックから地図帳を取り出して,アメリカ合衆国のページを開いた。
タオが覗き込んだ。
 
アメリカ合衆国の自然は,ほぼ真ん中に1本線を引き,ざっくりと東西に分けることができる。
東側は雨が多い平原,西側は雨が少ない山地※2だ。
合衆国の3億人を超える人口※3の多くは東側に暮らしている。
北東部にはメガロポリス※4と呼ばれる,ニューヨークを始めとした大都市が連なる地域もある。
 
地図に全米3大都市であるニューヨーク・ロサンゼルス・シカゴに印をつける。
さらにデンヴァーにも点を打ってみる。
すると4つの都市が地図上でほぼ等間隔に並ぶことが分かる。
こういう場所にはハブ空港※5ができやすい。
アメリカは世界最大の航空移動大国※6だ。
「近距離は自動車,都市間は飛行機」
というのがアメリカ人のライフスタイルのベースにある。

観光で来日したアメリカ人が成田空港でスカイライナーに乗る時に「そういえば電車に乗るのは5年ぶりだな。」と呟くのも珍しくない。
彼らは普段の生活で滅多に電車を利用しない。
そんなわけで各地にハブ空港がある。
3大都市だけでなくデンヴァーもアメリカの重要なハブ空港の一つだ。
 
「デンヴァーの標高が出ているでしょ?」
と僕が言うと,タオがぐっと地図帳に顔を近づける。
「1611mって書いてある。」
「そう。デンヴァーはロッキー山脈の中心都市なんだ。アメリカでは長さの単位にkmじゃなくてマイル表示を使うことが多いんだけど,1マイルは1609mだから,ちょうどデンヴァーは海抜1マイルの都市ということになるんだね。それで,付いたニックネームがマイルハイシティ,というわけ。」
「ハイってなあに?」とタオが滴ちゃんの顔を見る。
「高いとか高さっていう意味よ。」
「デンヴァーは標高が高いから夏涼しくて過ごしやすいから人気の街らしいよ。空気が薄くてスポーツの高地トレーニングにぴったりで,近くには世界のマラソンランナーの有名な合宿地※7とかもあるんだよ。」
地図帳を覗き込んでいた2人が視線を交わして笑顔になった。
「ね,お姉ちゃん。スマホみたいでしょ,ナオミ。便利でしょ。」
「いいなあ。私も一台欲しいなあ。」と滴ちゃんが顔を上げてまっすぐこちらを見た。

彼女の目は何か特別なグロスでコーティングしたみたいにつやつやしていて,見つめられると身体が硬直して一瞬動かなくなってしまった。
僕は少し息苦しくなり,みぞおちのあたりにアイスランド島のギャウ※8みたいな地形が現れているのをはっきりと感じた。
 
滴ちゃんは東京生まれだが,父親の転勤の影響で世界数カ国で暮らしたことがあるという。
ベッド脇には「旅に出たくなる世界地図」というやや大きめの地図帳が置いてあった。
地理に興味があるのなら,と僕は試しに中島先生のノートを見せてみた。
埃っぽいノートを洗いたてのシーツの上に置くのが申し訳なかったけれど,彼女はそんなことを気にも留めずノートをめくり始めた。

先生の肉筆の字は彼女にとって,隅々まで計算ずくで並べられたクロスワードより刺激的らしかった。
彼女は,磯浜で小さなカニを探すように前のめりになってノートの字を追っていた。
「もし良ければ,このノート貸してあげるよ。」と僕は言った。 
「いいんですか?」
「もちろん。他にもたくさんあるからね。読みにくい字だけど,だんだん宝探ししているみたいな気分になってハマるかもしれないよ。」
「これ,地図帳と一緒に見たら面白いかも。」
「そうだね。良いアイディア。」
「このノートの先生はどのくらいの国に行ったことがあるんですか。」 
「さあ,本人もちゃんと数えたことは無いって言ってたけど,たぶん80~90ヶ国くらいじゃないかなあ。」
「すごい。私もいろんな国に行ってみたいなあ。国っていくつあるんですか?」
「だいたい190くらいだよ。」 
「へーえ。先生はそのうち何か国くらい行ったことがあるの?」 
一瞬,先生って誰のことかと思ったけれど,僕のことだった。
普段オッキアーリでも先生と呼ばれて慣れているはずなのに,4つしか歳の変わらない女の子に先生と呼ばれたことに今さらながら僕は少しドギマギして,
「それがまだゼロなんだ。」と言った。 
滴ちゃんとタオが一瞬えっという顔をした。
「えー。そうだったのー。私,ナオミってすっごくお金持ちで,あちこち旅行してる人かと思ってた。」とタオが残念そうに言った。
「お金持ちなんかじゃないよ。全部テレビとかネットとか本の情報だよ。」
「なーんだ。ちょっとガッカリ。ナオミにいつか海外旅行に連れていってもらおうと思ってたのに。でも,いいわ,ちゃんと教えてくれたから許してあげる。これからも私とお姉ちゃんのスマホとして頑張ってね。」
「そりゃひどいな。」

病院からの帰り道,なぜかおやつを奢らされることになった。
根津神社※9の参道を歩きながらタオはできたてのタイ焼きを満足気に食べていた。
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※1 コロラド州デンヴァー 
ロッキー山脈のド真ん中にあるコロラド州は面積26.9万㎢,人口577万人(2020年)。デンヴァーは州都であり最大都市(人口71万人)である。19世紀のゴールドラッシュ以降発展し,ロッキー山脈における交通の要衝となり,近年は先端産業の集積が進み「シリコンマウンテン」と呼ばれている。年間の降水量は400mm弱で,ケッペンの気候区分ではBS(ステップ)気候である。
 
※2 東は雨が多い平原,西は雨が少ない山地
アメリカ合衆国は,真ん中を通る西経100度の経線によって東西に分けることができる。この経線はほぼ年降水量500mmのラインと一致している。東側は湿潤地域で,南部のメキシコ湾などではハリケーンの襲来もあり降水量が多い。西側は新期造山帯のロッキー山脈やシエラネヴァダ山脈、カスケード山脈が南北に走り,その間にコロラド高原やコロンビア高原,グレートベースンなどの高原や盆地が広がっており,カリフォルニア州のセントラルヴァレーなど一部を除いて低地は発達しておらず,乾燥地が多い。 
 
※3 アメリカ合衆国の人口・大都市
総人口は3.3億人で,インド・中国に次いで世界3位。降水量の多い東部に人口が多いが,西岸にも大都市はある。2020年の国勢調査による全米都市地域ランキングでは,カリフォルニア州だけで,ロサンゼルス(全米2位・389万人),サンディエゴ(8位・136万人),サンノゼ(10位・101万人),サンフランシスコ(17位・87万人)など20位以内に4都市がランクインしている。
 
※4 メガロポリス
巨帯都市。大都市圏が交通・通信網で密接に繋がり,巨大な“磁石”のように人・カネ・情報が集まり政治・経済・文化の中心的な役割を担っている都市地域のこと。合衆国の北東部のボストン~ニューヨーク~フィラデルフィア~ボルティモア~ワシントンDCまでの地域を,ゴットマン(仏)が命名したのが始まり。日本でも東京から神戸あたりまでを「東海道メガロポリス」と呼ぶことがある。 
 
※5 ハブ空港
航空交通の拠点となる空港のこと。多くの都市に直行便が就航しており,地図上で飛行経路を描くとまるで自転車のハブのように見えることからこう呼ばれる。ハブ空港では乗継ぎ客が多くなり,空港使用料だけでなく宿泊や飲食などの経済効果が見込めるため,近年のグローバル化を背景に,各地域で「ハブ空港の王座をめぐる競争」が激化している。アジア地域だけでみても,かつてはシンガポール・香港が2大ハブであったが,近年,仁川(韓国),上海・北京(中国),クアラルンプール(マレーシア),バンコク(タイ)などに巨大空港が開港している。国際線の乗降客数はドバイ(アラブ首長国連邦)が世界1である(2022年)。
 
※6 世界最大の航空移動大国
航空会社所属国別の統計(2021年)によると,アメリカ合衆国の国内線利用者は9203(億人キロ)で2位中国の6435(億人キロ)のおよそ1.5倍,世界全体(22840億人キロ)の40%を占める〔人キロ⇒1人の人間を1キロ運ぶと1人キロと換算する〕。ざっくりいうと「国内を飛行機で移動する人の4割はアメリカ人である」ということ。ちなみに日本は413億人キロ。
 
※7 マラソンランナーの有名な合宿地
デンヴァーの北西にあるボールダーが有名。2000年シドニーオリンピック女子マラソン代表の高橋尚子もオリンピック前の合宿地としてボールダーを選んだ。ピーク時には,酸素濃度がきわめて低く常人には危険な標高3500mを越える地点で走り込みを行い,見事オリンピック新記録(当時)で金メダルを獲得した。 
 
※8 アイスランドのギャウ 
大西洋北部にある島国アイスランドは面積10.3万㎢(朝鮮半島と同じくらい),人口36万人。ギャウとは島のほぼ中央部を南北に走る大地の裂け目のこと。ここは北米プレートとユーラシアプレートが生まれ東西に広がっていく「プレートの広がる境界」であり,地下の物質が上昇してくる場所(ホットスポット)にあたる。アイスランドでは今も活発な火山活動がみられ,緯度が高く(北緯65度)氷河も分布することから「火山と氷河の国」と呼ばれている。
 
※9 根津神社
東京都文京区根津。東京メトロ千代田線千駄木駅・根津駅,南北線東大前駅いずれも徒歩5分。つつじの名所として有名。近隣に森鴎外や夏目漱石ゆかりの地がある。

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