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【第38話】ガジュマルの樹の下で
かみのやま温泉駅※1の改札で赤嶺君が待っていた。
3月も終わりに近づき,駅前にはほとんど雪は残っていなかった。
少し歩いて蕎麦屋に入り乾杯した。
彼と二人で飲むのは初めてだ。
生粋の沖縄人だと思っていたけれど,彼が生まれたのは大阪で,1歳で和歌山へ転居したということを初めて知った。
小学生の時に彼の父親が事業で失敗し,父方の実家のある沖縄に引越したということだった。
彼の幼少期の記憶はほとんどが和歌山だという。
それなら雪を触ったことぐらいありそうな気もするのだけれど,彼は記憶に無いという。
「毎年夏には,天神崎※2の海に遊びに行ったんだ。」と赤嶺君は言った。
「ああ,日本のナショナルトラスト運動※3発祥の地,だったっけ?」
「そうそう。」
「その頃は僕も徳島に住んでいたから,僕らは紀伊水道※4を挟んで向かい合ってたってことだね」。
「中央構造線※5で繋がっていた,とも言えるね。」
「さすが,地理マイスターは言うことが違うなあ。」
「あのさ,前から思っていたんだっけど,水野ッチやミドリちゃんがそういう時って僕のことをちょっと小馬鹿にしてるでしょ。」
「そんなことないよ。本心だよ。赤嶺君の知識量は半端ないよ。」
〇 〇 〇
赤嶺君は,小学校5年の夏休み,親戚の住む宮古島に遊びに行き下地島※6へ渡った。
そこは日本の航空会社が運営するパイロット養成所があり,滑走路でタッチアンドゴーの訓練が行われていた(注:2014年で終了)。
海鳥が滑降し水面近くの鰯をひょいとくわえて再び大空に舞い上がるように,航空機が着陸と離陸を繰り返していた。
滑らかな飛行曲線と,身体ぜんたいに振動が伝わるほどの爆音に彼は一瞬で心を奪われた。
「あれは飛行機っていうより怪獣だったね。」と赤嶺君は言う。
「キングギドラが襲ってくるみたいでもの凄くカッコ良かった。あれに乗りたい。あいつを操ることができたらどれだけ楽しいだろう,ってワクワクが止まらなくなったんだ。」
その日から,彼の中に将来は絶対パイロットになる,という明確な目標ができた。
部屋の壁はボーイングやエアバス※7の機体のポスターで埋め尽くされ,寸暇を惜しんでDVDを見た。
プラモデルも何十体と作った。
勉強へのモチベーションも格段に上がった。
大陸の東に浮かぶ島国の,さらに0.6%の面積にしか過ぎない沖縄から外へ出て世界の空を制覇してやる,そう考えただけで思わず駆け出したくなるくらい彼の心は躍った。
航空機という200tを超える巨大な物体※7が悠々と空を飛ぶために,さまざまな科学技術の成果が凝縮されている。
彼はむさぼるようにあらゆる分野の知識を吸収していった。
乾いたスポンジに吸収される水は膨大な量に上った。
けれども,その切実な夢は中学3年でプツリと途絶えることになる。
「何があったの?」と僕は尋ねた。
彼はすぐには答えず,
「ねえ,水野ッチさ,『夢は必ず叶う,そのための努力を惜しまないようにしよう。いつかきっと報われる日が来る』みたいなことをいう大人をどう思う?」と逆に質問してきた。
彼がどんな答えを期待しているのかはその口ぶりで何となく想像できた。
僕は少し考えてから言った。
「小さい頃から『努力をして夢が叶う人もいるし,努力したけれど夢が叶わない人もいる,これが真実です』と言う人がなぜいないんだろう,と思ってた。今もそう思ってる。」
日々懸命にトレーニングをしてオリンピックの金メダルを目指している世界中のアスリートが全員その念願を達成してはいないという明確な事実がある。
僕らの周りには「夢を実現できなかった人々が作りあげたもの」がたくさん存在している。
赤嶺君は不適な笑みを浮かべて「てんかんだよ。」と言った。
パイロットになるためにはいくつかの条件がある。
身体的な条件の一つに「てんかん」に関する項目がある。
一度でもてんかんと診断されたことのある者はパイロットの受験資格が得られないのだ。
大勢の乗客の命を預かる職業なのだから仕方のないことではある。
それを彼に伝えたのは中学校の担任だった。
「比嘉先生っていってね。僕が唯一信頼していた先生。」
職員室から見える大きなガジュマル※8の葉が風でざわっと揺れた情景が,今も目に焼き付いているという。
僕は黙って残っていたハイボールを飲み干した。
彼と違って,僕にはなりたいものが無かった。
いや,少しはあったかもしれない。
小さい頃はバスやタクシーの運転手に憧れた。
それはいつしか新幹線の運転手に変わり,やがて登山家や測量士になり,地図を作る人,建築家など,レストランのおすすめメニューのように変遷した。
その中で彼ほどに本気でそれになりたいと思えたものがいくつあったか。
たぶん一つもない。
「“何にでもなれる”っていうこの世界で,僕だけ何にもなれないっていう気分になったわけさ。」
彼はそれ以来,やたらと人を鼓舞するようなコメントには全く共感できなくなった。
蕎麦屋のご主人がりんごをサービスしてくれた。
3月はいろんな果物の端境期にあたり,今はこれくらいしかなくてね,と申し訳なさそうに言う。
もう少しするとさくらんぼが旬を迎え,夏にはもも,すいか,杏などをシャーベッドにして提供しているという。さすがフルーツ王国※10だ。
「うちの息子もちょうどあななたちくらいでね。」と笑った。
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※1 かみのやま温泉駅
山形県上山市(人口2.9万人)の中心駅。1992年山形新幹線の開通に伴いひらがなの「かみのやま温泉」に改称。山形新幹線はミニ新幹線として最初に開通した路線(現在は福島駅~新庄駅間で運行中)。ミニ新幹線とはフル規格の線路を新規に建設することなく,すでにある在来線の上を新幹線の車両を通すことで,建設コストを抑えつつ鉄道高速化を進める一手段である(同年に開通した秋田新幹線も同様)。
※2 天神崎
和歌山県田辺市の田辺湾の北側に突き出た岬。日和山(標高28m)を中心とした海岸近くの丘陵部と干潮時に顔を出す平坦な岩礁が広がる。田辺市街地に近いにも関わらず,陸と海に生息する動植物が同居し豊かな生態系を構成している。近年はSNSで「日本のウユニ塩湖」として人気となり,引き潮の時間帯になると多くの観光客が訪れるようになっている。
※3 ナショナルトラスト運動
19世紀の産業革命期のイギリスで始まった運動。豊かな自然環境や歴史的建造物を有志者が「買い取って」(或いは寄贈により)保護するという点に特徴がある。日本では1968年に財団法人日本ナショナルトラストが設立され,70年代になると天神崎や北海道の「知床100平方メートル運動」などが大きな反響を呼ぶようになった。現在,日本では全国で48団体による活動が行われている。
※4 紀伊水道
和歌山県・徳島県・淡路島(兵庫県)によって囲まれた水域。瀬戸内海と太平洋の境界にあたる。地図を見ると和歌山県の紀ノ川と徳島県の吉野川が紀伊水道を挟んでほぼ一直線に流れていることが分かる。ここを中央構造線が走っている。
※5 中央構造線(メディアンライン)
日本は東北日本が北アメリカプレート,西南日本がユーラシアプレートに属し,その境界にあたるのがフォッサマグナ(大きな溝の意)である。西南日本はさらに中央構造線と呼ばれる断層によって内帯(北側)と外帯(南側)に分けられる。長野県の諏訪湖から天竜川,三河湾,櫛田川,紀ノ川,吉野川を通るラインは地図上でもハッキリ確認することができる。内帯は緩やかな地形で,外帯は高峻な地形が発達している。西日本の大都市はほぼ西南日本内帯にある。
※6 下地島
宮古島の北西部にある面積9.7㎢/人口わずか15人(2019年)の隆起サンゴ礁の島。細い水路で伊良部島と隔てられいるが6本の橋で結ばれており,伊良部島と宮古島は全長3.5kmの伊良部大橋(2015年完成)で繋がっている。下地島空港はパイロット訓練を目的として建設された日本唯一の飛行場である。そのため,地方空港としては長い3,000m級の滑走路を有している。2014年に訓練場としての役目は終えたが,2019年に新ターミナルが開業し,成田国際,関西国際,香港との間に定期便が就航している。2020年からは羽田・神戸・那覇との就航(スカイマーク)が始まった。現在は韓国との定期便も開設されており,国際空港化が進んでいることを背景に,宮古島では近年リゾート地としての需要が高まり,ホテルなどの建設ラッシュで地価や家賃が高騰するバブル状態になっている。
※7 ボーイング・エアバス
世界の航空機生産台数は,シアトル(アメリカ)に本社を持つボーイング社と,トゥールーズ(フランス)に本社を持つエアバス社の2つが抜きん出ている。日本のJAL(日本航空)やANA(全日空)などのほとんどの機体がこの2社のいずれかの機体を使用している。ちなみに3位はブラジルのエンブラエル(1969年政府の支援で設立)。
※8 200tを超える巨大な物体
ライト兄弟が初めて空を飛んだ時の機体は木材と木綿で作られていた。その後はアルミ合金が主流になっていく。アルミ合金で作った機体は平均で約210tほどの重さになる。近年は炭素繊維というアルミ合金よりさらに軽くて丈夫な素材が開発されており,約100tと半分以下の重さになる(もし全部鉄で作ると250tほどになると言われている)。炭素繊維はベルギー・日本・アメリカ合衆国の企業がシェア上位であるが,近年は中国企業の躍進が目立っている。
※9 ガジュマル
亜熱帯から熱帯に分布する常緑広葉樹。日本では種子島・屋久島以南の地域に分布する。樹高は20mほどにもなる。ガジュマルは沖縄地方の呼称。沖縄ではガジュマルの大木にはキジムナーという妖精が住んでいるとされている。気根を伸ばした様子が雨降りのように見えることからレインツリーとも呼ばれる。
※10 山形はフルーツ王国
さくらんぼ(70%),西洋なし(65%)はダントツ1位。もも・すもも・ぶどう4位(1位は山梨県)。りんご4位(青森・長野で8割生産)。県内を流れる最大河川の最上川流域には盆地が多く(新庄盆地・山形盆地・米沢盆地など),盆地の周辺部には水はけの良い扇状地が発達しており,果樹栽培に適した自然環境に恵まれている。