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【第51話】マックで世界旅行(中学・高校①)
ロベン島の政治犯の気持ちがほんの少し分かる,と滴ちゃんは言った。
毎日ずっと同じ窓から同じ空を見つめている,という点に関しては,と。
「もちろん,マンデラに比べればものすごく恵まれてますけど。」
「ネルソンマンデラは,収監中に通信制大学で法律や語学を勉強して学士号を取ったらしいよ。さあ,今日も頑張ろう。」
と彼女に新しい数学の問題集を渡そうとして,ノートから紙がひらりと落ちた。
“セカケン7 田村” と走り書きがあった。
セカケンとは世界遺産検定のことだ。7はたぶん7月を意味している。
それよりも田村という名前を見て一瞬で僕の頭は中学時代にワープしそのまま静止してしまった。
「どうしたんですか?」
「いや,昔の友達の名前が出てきて急に中学生の頃を思い出しちゃった。」
「へえ。ナオミ先生の中学時代の話してほしいな。」
「いやいや。誰かに話すほどパッとしたエピソードなんてないよ。」
「いいんです,全然。先生がどんな学校に通ってどんな毎日を送ってたのか知りたいです。私,子供の頃から伝記とか読むの好きだったんですよ。エジソンとかヘディン※1とか。私も頑張ろうって気持ちになるので。」
「ますます話しにくくなるよ。」
〇 〇 〇
田村君は成績優秀でかつスポーツ万能の中学校一の有名人だった。
圧倒的なポテンシャルの高さがありながら,それをひけらかすようなところもなく,他人にも優しく,リーダーシップにも長けているという,全く非の打ちどころのない男子だった。
他の人間だったらうんざりするような自慢話の類も,彼が話すと不思議と嫌味がなくジョークも秀逸で,彼の周りはいつも笑いが絶えなかった。
当時の僕は広島に転校して間もない頃で,友達も少なくクラスでは地味な存在だった。
田村君はまったく別世界の住人にしか思えなかった。
全く存在感のない僕に,なぜか田村君はよく話しかけてきた。
「ねえ水野君さ,この前美術の時間に描いていた絵はなあに?」
「美術の時間? ああ,夏休みの思い出の絵?」
「それそれ。茶色い電信柱みたいなのをたくさん描いてたよね。」
「あれは土柱※2だよ。」
「ドチュウ?何それ。」
「徳島県の山の中にあるちょっと変わった場所だよ。今年の夏に池田※3の叔父さんが連れて行ってくれたんだ。」
「へえ,徳島か。僕は東京生まれで小4で広島に引っ越して来たから四国へはまだ行ったことがないんだ。」
彼も転校生だったことを初めて知り,僕より少し前によそ者としてこの街にやってきた人間でもこうしてクラスの中で生き生きとした存在になれるという事実に,少しの希望と彼への親近感が芽生えた。
田村君は僕の手を引いてさっそく職員室に質問をしにいった。
大城先生も土柱のことは知らなかった。
大城先生は手際よくパソコンで検索して画像を見せてくれた。
「こんなところがあるんですね,知りませんでした。カッパドキア※4に似ていますね。」
「カッパ?何ですかそれ。」田村君が笑った。
大城先生は本棚から「行ってみたい世界遺産50」という写真集をひっぱり出して僕らに見せてくれた。
「カッパドキアはトルコにある複合遺産です。複合遺産というのは自然遺産と文化遺産の両方の登録基準※5を満たしている世界遺産のことで,世界には30くらいしかないんです。火山灰でできた土地が削られた大きな谷を歩いていると,絵本の中に入り込んだような気分になります。面白いところですよ。」
「先生は行ったことがあるんですか?」
「ええ。大学生の頃ですね。トルコからずっと陸路をつたってパリまで貧乏旅行をしました。」
それ以来,休み時間になると田村君と職員室へ顔を出し大城先生と雑談をすることが増えた。
先生の机の上には見たことのないどこかの国の雑貨が幾つか置いてあって,そこだけ異世界への入口みたいだった。
先生は僕らの幼稚な質問に根気よく耳を傾け,世界各地を訪れた時のエピソードを語ってくれた。
東南アジアで不衛生な水を飲み下痢がおさまらずに3日間で体重が5キロも減ったこと。
東欧の美術館の前でニセの警官に声を掛けられ財布から一万円札を掏られたこと,などなど。
「二人は外国の歴史や地理に興味が出てきたようですね。」と大城先生は言い,本棚から世界遺産検定の公式テキストを見せてくれた。
「別にこのテストを受けなさいというわけではありません。ただ,ここには君たちが知らない場所がたくさん出ています。ひょっとしたら二人のアンテナが反応する自然遺産や文化遺産があるかもしれません。」
「わあ,ほんとだ。世界遺産てこんなにあるんだ。」田村君がテキストをめくりながら目を輝かせた。
僕たちはさっそく放課後広島駅近くの大きな書店に行って,世界遺産検定の公式テキストを買いマックに入ってバニラシェイクを飲みながらそれを読んだ。
田村君は,僕など初めからそこにいなかったかのように,食い入るようにテキストに没頭し始めた。
今から思えば,この類い稀な集中力こそが田村君の卓越した能力の核を形作っていたんだと思う。
全く聞いたことのない地名が次々と登場して頭がクラクラした。
でも面白かった。
僕たちはいつしか架空の世界遺産ツアーを作りあって遊んだ。
「自由の女神※6とグランドキャニオンはどちらもアメリカだからいっぺんに回れるかな。」
「いや,自由の女神はニューヨークだけどグランドキャニオンはずっと西だから,その前にナイアガラの滝を見に行こうよ。」
「ちょっと待って,ナイアガラ※6は世界遺産じゃないよ。」
想像力は無限だった。
僕らは次々に世界の大陸を瞬間移動した。
グレートバリアリーフ※8の海に潜って水面から顔を出すとそこはバイカル湖※9だった。
泰山※10の長い階段を上ると,その頂上はキリマンジャロ※11だった。
それと同時に,学校一の有名人と対等に話をしている自分もまんざらではないなと気持ちが大きくなり,だんだん冗談を言う余裕も生まれてあっという間に夜になっていた。
広島に転校してきて一番楽しい時間だった。
でも,それ以降の僕らには大きな隔たりがあった。
田村君は空の段ボール箱を持ち上げるくらいの軽やかさで,世界遺産検定も4級⇒3級⇒2級とあっという間に合格していった。
僕は呆気にとられた。
どうして彼は一度読んだだけで文章の内容をほぼ完璧に記憶できるのだろう。
田村君の眼の奥には極めて高性能のカメラが搭載されていて,画像は瞬時に保存され綺麗にファイリングされていくのだった。
僕は違った。
僕の意識はすぐにふわふわとテキストの文字から離れ周辺を漂い,何も頭に入っていないまま目だけが数行先に移動しているのに気付き,ハッとしてまた元の位置に戻る,それの繰り返しだった。
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※1 スヴェン・ヘディン(1865-1952)
スウェーデンの地理学者・探検家。ペルシア(イラン)から中央アジア・インド・チベット地域など広範囲にわたり探検旅行を敢行,地理学・考古学・生物学・民族学など他分野にわたる研究を行う。1900年中国内陸部のタリム盆地を探検し,干上がったロプノールの湖床を発見し「さまよえる湖」説を唱える。
※2 土柱
徳島県阿波市の讃岐山脈の丘陵斜面に形成された礫岩の侵食地形。高さ10mほどの柱状の地層が林立している。夜間にはライトアップされ,阿波市の観光名所となっている。
※3 池田
池田町。徳島県西部。江戸時代から葉たばこの産地として知られる。2006年5町村と合併し三好市となったため,池田町は廃止された。市町村の「平成の大合併」は1999(平成11年)から10年余りにわたって政府主導で行われた。少子高齢化が進み,国・地方自治体ともに財政状況が厳しさを増していることなどが背景にある。1990年代に3200以上あった日本の市町村数は2020年現在1718である。
※4 カッパドキア
トルコ共和国にある複合遺産。1985年登録。正式名称は『ギョレメ国立公園とカッパドキアの岩石群』。同国を代表する観光地。キノコ型の凝灰岩の奇岩が林立する地域に,3世紀以降のローマ帝国による弾圧を逃れたキリスト教徒達が作った洞窟聖堂や修道院が点在する。36の地下都市も確認されているがその起源はよく分かっていない。
※5 登録基準
世界遺産登録には10個ある登録基準(ⅰ)~(ⅹ)のいずれか一つ以上を満たす必要がある。(ⅰ)~(ⅵ)は文化遺産,(ⅶ)~(ⅹ)は自然遺産の登録基準である。文化遺産・自然遺産の両方の登録基準をそれぞれ一つ以上満たせば複合遺産となる。2024年現在,世界遺産総数1223のうち複合遺産は40である。主な複合遺産には,マチュピチュ(ペルー)・ウルル(オーストラリア)・黄山(中国)などがある。
※7 自由の女神/ナイアガラ
アメリカ合衆国の世界遺産25のうち,12ヶ所はイエローストーン/グランドキャニオン/ヨセミテ/エバーグレーズ/ハワイの火山などの自然遺産である。カナダとの国境に位置するナイアガラの滝もアメリカを代表する観光地であるが,滝を流れる水量が人工的に調節されていることや,周辺に観光用の娯楽施設が多く景観美の面で登録基準を満たしていないなどの理由で世界遺産には登録されていない。ニューヨークの『自由の女神像(Statue of Liberty)』は1984年登録の文化遺産。合衆国独立100周年を記念してフランスから贈られた19世紀の鉄鋼技術(エッフェル塔を設計したギュスターヴ・エッフェルの案が採用された)を示す最高傑作と言われている。
※8 グレートバリアリーフ
オーストラリアの自然遺産(1981年登録)。大陸北東部の海岸に沿うように約2300kmにわたって広がる世界最大のサンゴ礁。1802年イギリスの探検家によって命名。近年海水温の上昇や開発による土砂の流入で分布地域が減少し問題視されている。
※9 バイカル湖
ロシアの自然遺産(1996年登録)。シベリア内陸部にある世界で最も深い湖(―1792m)。面積31500㎢(関東地方とほぼ同じ)。湖底から噴出する鉱物で湖水が浄化され,世界で最も透明度の高い湖とも言われている。300以上の河川が流入するが,流出する河川はアンガラ川のみ。
※10 泰山
中国の複合遺産(1987年登録)。中国五山の筆頭で,参拝者がひっきりなしに訪れる道教の聖地。標高1545m。中国の歴代皇帝はこの地で「封禅」と呼ばれる儀式を行なった。全長9㌔,約7000段にも及ぶ長い石段があることで有名。世界遺産の登録基準(ⅰ)~(ⅶ)の全てを認められている唯一の世界遺産でもある。
※11 キリマンジャロ国立公園
タンザニアの自然遺産(1987年登録)。アフリカ最高峰(5895m)の活火山であるキリマンジャロ山を中心に広がる自然公園。ふもとには広大なサバンナ(熱帯草原)が広がる。赤道付近に位置しながら山頂付近にはアイスキャップとよばれる氷河が分布しているが,温暖化の影響でその消失が危惧されている。