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【第57話】フィリピンのスラムでヤツに会う(中島ノート⑱)

病室に西日が射してきたのでカーテンを閉めた。
滴ちゃんのパジャマが薄黄色に変わった。
「ね,何のドラマもないでしょ?」 
「そんなことないです。先生のフットプリント※1って感じです。」
「お,地理っ子っぽい感じのワードがすらっと出てくるようになったね。」
「それに,すごくナオミ先生らしいなあって感じですね。」
「どういうこと?」
「想い出話をしてるのに地理の勉強になってる,ってところが。」
「そういうことか。それって褒められているの?」  
「もちろんです!」
僕が帰り支度を始めると,滴ちゃんは「あ,そうだ」と中島ノートを取り出し,栞を挟んでいたページを開け
「この前,ちょっと謎の記述を発見しちゃったんです。」と言った。
それは中島先生がマニラ※2を訪れた時のメモだった。
 
〇  〇  〇  
 
ホテルのフロントで聞いた書店を探していたら,トンド地区※3のかなり近くまで来ていた。
空気が埃っぽい。
いや,埃だけではなく排気ガスや得体の知れない微粒子が濃密に辺りを漂っている。
雑居ビルや店舗が密集し高層ビルも見える。
バイクとクルマの音がけたたましく鳴り続けている。
橋を渡る。ゴミが大量に浮かんでいる。
そのすぐ近くで子供が数人はしゃぎながら泳いでいる。
偽造パスポートの店が堂々と看板を掲げて営業している。
電信柱の上部から数百本の電線が放射状に伸びていて,そこだけ鳥の巣のように見える。盗電だ。
 
教えられた書店がなかなか見つからず,歩き疲れて露店で水を買い人通りの少ない路地に入り段差に腰掛けて飲んでいると,突然ヤツが現れた。
驚いて声が出なかった。
何でこんな所にいるんだ,と呆気にとられているとヤツは言った。
「やあ,5年ぶりくらいかな。」
「・・・。」
「前回会ったのはソウェト※4だったね。」
 
思い出した。
ヨハネスブルクの黒人居住区を巡った帰り道,10人乗りワゴンの一番後ろでウトウトしかけた時にヤツは突然現れた。
「あの時ボクが言った通りここへ来てくれたんだね。」
「何だって?」
「忘れちゃったのかい。」
「俺は俺の意思でここへ来たんだ。おまえの指示に従った覚えはない。」
「おかしいなあ。あの時ボクはキミに言ったんだよ。“もっといろんな場所を見てごらんよ。マニラのスモーキーマウンテン※5とかナイロビのキベラ※6とか”って。」
「覚えてない。そんなこと。」
「まあいいさ。で,あちこち見て回って何か分かったかい。」
「ああ,この世界は不平等にできているってことが痛いくらい分かったよ。」
「ふうん。それで,その間違った世の中を正しくしようと頑張ってるってわけかい?」
「いや,大したことはできてないな・・・。」
「そりゃそうさ。」
「何で分かる?」
「だって,君が望んでいるのはそういうことじゃないもの。」
「何でそんなことがわかるんだ。おまえは俺が何をしたいか知ってるっていうのか?」
「分かるよ。君を見ていれば。」
「じゃあ言ってみろよ。」
「簡単さ。君は動き続けていたいんだ。同じ所でじっとしているのが苦痛でしょうがないのさ。だから君は旅ばかりしている。あちこちで色んな風景を見ていろんな人と会話を交わす。でもね,君は今まで一度もそこに住もうとは思わなかったろ?」
それはその通りだ。
旅に出るといつも,ああ街なんてどこでも同じじゃねえかと思う自分と,いや次の街にはきっと新しい何かがあるに違いないと思う自分がいて,その葛藤の中で生まれるエネルギーを昇華するために旅に出ていると言ってもよかった。
「そういう点からすれば,君は今理想のポジションにいると言えるね。大学の面倒くさい仕事をのらりくらりとかわして,長期の休みにはこうして旅に出る。裕福とはいえないけれど,同じ場所にずっと居続けるという君にとって最大のストレスからは定期的に解放される。」
常に生意気なコイツに反論しようとしたが,言葉が続かなかった。
「なあ,そもそもお前は誰なんだ。何で俺の行く場所が分かるんだ?」と言うしかなかった。
「やれやれ,それすらも気付いてくれてないんだなあ。まあいいさ。一つだけ断っておくけど,ボクは君の敵じゃない。味方だよ。いや,相棒といった方が的確かな。君がボクを必要としてくれるならボクは現れる。忙しい時もあるからいつでもすぐってわけじゃないけどね。」
「おまえ,名前は何ていうんだ?」
「それはキミが決めてくれていい。」
 
〇   〇   〇  
 
ノートの記述はそこで終わっていた。
「ね,何だか不思議なメモでしょ。“ヤツ”ってだれか分かりますか?」
「いや,確かにナゾだね。先生の他のノートも注意して見てみるよ。」 
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※1 フットプリント 
「足跡」「足型」の意味であるが,コンピューターの世界ではシステムの中に残る記録やデータを指す時に使われたりする。環境問題に関連する用語としては,食料や工業製品の生産・加工・流通・消費・リサイクル等全ての過程で使われる水の足跡をウォーターフットプリント,同様に二酸化炭素に注目した場合はカーボンフットプリントと呼ばれる。またエコロジカルフットプリント(EF;人間が環境に与えた負荷を資源の再生産や廃棄物の浄化に必要な面積としてしめした数値)と呼ばれる指標もある。EFはふつう人間生活が維持するために要する1人当りの陸地と水域の面積として示される。
 
※2 マニラ  
フィリピンの首都。市域人口は185万人(2020年)だが,近郊を含む都市圏人口は2300万人を超え,東南アジアではシンガポール,バンコク,クアラルンプール,ジャカルタに次ぐ世界有数の大都市圏を形成している。熱帯気候に属し,近海で発生する台風の影響を何度も受けるために,年降水量は2000mmを大きく超える。
 
※3 トンド地区
マニラ北西部にある貧困地域として世界的に有名な地区。世界有数の人口密集地帯で,面積9.1㎢に60万人以上もの人々が住んでいると言われている。川をはさんだ向かいにはマニラを代表する歴史的景観地区であるイントラロムスがある。フィリピンの第13代大統領(1998-2001)のジョセフ・エストラーダはトンド地区出身である。
 
※4 ソウェト(SOWETO)
南アフリカ共和国のヨハネスブルクにある黒人居住区。South Western Townships の略である。アフリカ系住民の多くが強制移住させられた地区であり,アパルトヘイト時代の負の歴史を象徴する地域として見られることが多い。
 
※5 スモーキーマウンテン
マニラ・トンド地区にあるゴミ集積場。持ち込まれた大量の廃棄物が巨大なゴミ山となり焼却処理をしていないゴミが自然発火し常にどこかで煙が上がっていることからこう呼ばれるようになった。かつてはゴミ山周辺に2万人を超える住民が暮らしていたが,政府によってゴミ処理場は移転し住民は半強制的に移住させられた。しかしゴミ山が無くなったわけではなく,ゴミを拾って生活をする住民は今も多い。
 
6 ナイロビのキベラ
ケニアの首都ナイロビの郊外に広がるスラム地区。規模はソウェトに次いでアフリカで2番目に大きいといわれる。ナイロビの人口の過半数が居住しているともいわれる。ソウェトのスラムと同様に,1963年ケニアがイギリスから独立して以降,キベラでの人口が急激に増加した。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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