【第3話】パタゴニア・モレーンを歩く(中島ノート①)
2月25日 晴れ一時雪
午前9時。歩き始めて2時間。
山の向こうに大きな谷が見えた———。
おかしな日本語だ。
山と山の間にあるのが谷というものではないのか?
けれど,今はその言い方がしっくりくる。
手前には明らかに小高い丘陵の稜線が見える。
そしてその後ろに――自分の遠近感に歪みが生じているんじゃないかと錯覚するほどの――大きなU字谷※1が広がっている。
天から大きな半球状のスプーンが降りてきてひらりと山塊を持ち去ってしまったかのようだ。
パイネは氷河地形の博物館だ。
エスカーもドラムリン※2も何だってある。
パイネ国立公園※3は面積2400㎢。
神奈川県ほどの広さの巨大公園のハイライトの一つであるトーレスデルパイネまで半日のトレッキングに出かけた。
水と食料をリュックに入れ早朝プエルトナタレスのホテルを出発。
トーレスに近づくにつれて傾斜がキツくなり,足元のガレ場の岩の一つ一つが大きくなる。
安全なルートを探すため何度も立ち止まり水筒の水を飲む。
聞こえるのは風と自分の呼吸だけだ。
巨大なモレーン※4の山をいくつも超えるうちに,2月だというのに雪※5が降り出した。
くそ,厚手の手袋を持ってくりゃあよかった。
麓から3時間半ほどでトーレスが間近に見えるポイントに到着。
周囲には誰もいない。
幸運なことに雪は止み,グレーの空が明るくなってきた。
目の前には,まるで噴火口と見間違うくらいの大きな陥没地に緑色の氷河湖が横たわり,その背後にほぼ垂直巨大な3本の塔(トーレス)が屹立している。
頂付近は薄くガスがかかってよく見えなかったが,それでも十分過ぎる迫力だ。
足元の残雪をマグカップに入れてウィスキーの水割りを作り,ガレ場に腰掛けて再びトーレスを見上げる。
巨大な岩壁が地底から突き立てられた大男の3本指だとするなら,これはいったい何のサインなのか?
白濁したコバルトブルー。融けた氷河に何が混ざったらこんな湖面の色になるのだろう。
まるで巨人が絵筆を洗ったあとのようだ。
パタゴニアの風に吹かれて飲む酒は格別だ。
帰り道,トレッカーと何人もすれ違う。
みな「トーレスは見えたか?」と聞いてくる。
「見えたよ。クリアーではないけどね。」と返すと皆ニコっと笑い先を急いだ。
20時,宿に戻りシャワーを浴びて,今日歩いたルートを地図上で確認して驚いた。
一日でたくさんの谷や尾根を越えたが,それらはすべてモレーンの上に位置していた。
俺は丸一日氷河の削りカスの上をウロウロしていたってことだ。
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※1 U字谷
氷河によって侵食された谷。断面の形がアルファベットのUの字のように丸みを帯びていることからこう呼ばれる。水が氷に変化する時,自然の状態ではなるべく球体に近づこうとする性質がある。河川が侵食してできた谷はV字谷と呼ばれるが,流水によって形成されたV字谷よりも氷河による侵食でできたU字谷の方が側方侵食が進むため,谷底は広く谷壁は急斜面になる。
※2 エスカー・ドラムリン
いずれも氷河地形の一つ。氷河が削り出した砂礫がヘビのようにうねうねと堆積してできた地形がエスカー。小さな丘のように堆積したものがドラムリン(大学入試ではほぼ出題されない)。
※3 パイネ国立公園
南米チリ南部のアルゼンチンとの国境付近に位置する自然公園。正式名称はトーレス・デル・パイネ国立公園。荒涼としたパタゴニア地域(南米大陸のおよそ南緯40度以南の地域を指す)の大自然を堪能できるスポットとして人気。
※4 モレーン
氷河が削りだした砂や礫のこと。氷河の末端部では,氷河が運搬してきた礫などが氷河が融解したあとに丘陵状に残されることがある。氷河を巨大な彫刻刀に例えれば,モレーンは「削りかす」に相当する。かす,といっても氷河のスケールは我々の想像のはるか上を行く。目の前に見える大きな山が実は全部この削りかすだったなんてことが普通にあるのである。モレーンはかつての大陸氷河の末端部にあたるアメリカ・カナダや北ドイツ平原などに広く分布しているが,日本でも小規模なものが日本アルプスなどで確認できる。
※5 2月だというのに雪
パイネ国立公園は南半球にあるので,2月は真夏なのです。