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【第43話】 氾濫と水害は同じではない

バイトまで時間があるから散歩しない?とミドリに誘われ,中島邸の近くを流れる善福寺川※1に沿って歩いた。
川沿いに遊歩道があり,老人が散歩をしたり子ども達が水際で遊んでいた。
 
川のすぐ近くで大きな貯水池の建設工事が進行中だった。
緑地が減り,それまでスポンジのように雨を吸収していた地面がアスファルトで覆われるようになると,雨は素早く地表を流れ一気に河川に集まるようになる。
短時間で河川の水位が上昇し,小規模な氾濫,ミニ洪水が起こりやすくなる。
住宅が疎らだった頃は河川周辺の湿地帯が貯水タンク(遊水池)の役割をしたけれど,今は河川ギリギリまで人が暮らしている。
大きな貯水池を建設しなければ水害のリスクが高まってしまうのだ。
これは郊外の住宅地でも同じだ。
多摩ニュータウンでも港北ニュータウン※2でも小規模な宅地開発でも,貯水池は住民の生活を陰で支える重要なインフラになっているのだ。
降水量が世界平均の倍以上ある日本※3にとっては避けられない宿命である。
 
近くで2人の作業員が話をしていた。
聞いたことのない音の言語だった。
「何語だと思う?」とミドリが言う。
「ベトナム語?いや,全然分からない。」
最近は工事や住宅の解体現場で働く外国人労働者※4が増えている。
高齢化で慢性的な人手不足(これは建築業界に限った話ではないけれど)を背景に外国人の就労条件が緩和されたからだ。
特定技能資格者※5だったら日本語の試験にパスしているはずだけれどなあ。」
「でも現場に行って同じ国出身の人がいたら普通に母国語で話すでしょ。」
「まあそれもそうか。」
 
ミドリはずんずん歩いて行く。
「覚えてる?洪水と氾濫と水害の違い。」
スマホで周りの風景を撮りながら彼女は僕に話し掛ける。
最近,僕らの会話はミドリの「覚えてる?」で始まる機会が多くなっている。
中島先生の授業は死後も続いているのだ。
 
洪水と氾濫はほぼ同じ意味で扱われているけれど※6,氾濫と水害はイコールではない。
堤防から水があふれたとしても,周辺の土地に誰も住んでいなかったら被害を受けないからだ。
河川が氾濫しただけでは水「害」にならないのだ。 
シベリアの大河川※7の流域では,毎年のように融雪洪水※8が起こって都道府県がすっぽり入ってしまう程の広大な土地が水浸しになるけれども,我々の耳にそのニュースは入ってこない。
 
僕らは河川敷をさらに歩き続けた。
日本有数の人口稠密地帯である杉並区※8を歩いているというのに,とても静かだった。
頭上には雲ひとつ無い青空が広がっていたけれど,水路沿いを歩くとまるで秘密の地下経路を進んでいるような不思議な気分になった。

住宅密集地で息苦しさを感じたら,川に出てきなよ,流されるのってラクだぜ。
そんな事を言われているような気がした。

川音はいつしか聞こえなくなり,川は数mのコンクリートの垂直な壁面の下を流れ,水際には降りることができなくなっていた。 
明治の頃は東京でも舟運が発達していたと案内板に書かれていたけれど,その絵が浮かんでこなかった。
「都市化」とは人と川との分断を意味しているのだな,と思った。
 
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※1 善福寺川 
神田川の支流の1つで,杉並区の善福寺池を水源とする延長8.84kmの河川。江戸時代から神田上水として使用され,また農業用水としても利用されてきたが,現在は排水路河川となっている(『川の地図辞典』より)。
 
※2 多摩ニュータウン・港北ニュータウン
多摩ニュータウンは東京都西部の多摩丘陵に高度成長期の住宅不足を補う目的で建設された28.8㎢(東西15km,南北5km)に及ぶ住宅団地で,新宿から京王線で25~40分の地域にあたり,1971年から入居が始まった。港北ニュータウンは横浜市北部に建設された住宅団地で1983年から入居が開始された。その他の大規模ニュータウンとしては千里ニュータウン(大阪),千葉ニュータウン(千葉),高蔵寺ニュータウン(愛知)などがある。いずれも近年は入居世代の高齢化と若年層の流出により老年人口の上昇が著しく,「ニュータウンのオールドタウン化」が進んでいる。
 
※3 降水量が世界平均の倍以上ある日本
地球上の陸地と海洋を含めた全ての地域の平均の年降水量は約750mmだが,日本列島の平均は約1700mmである。周辺を海に囲まれモンスーン(季節風)の影響を受けやすく,また東アジアに特有の梅雨の時期があり,さらに台風の襲来も多いことから世界平均を大きく上回っている。
 
※4 外国人労働者
厚生労働省のデータによると外国人労働者数は2023年10月現在で204万人で,前年より22.5万人(12.4%)も増加し,届出が義務化された2007年以降過去最高を更新した。国籍別ではベトナムが最も多く全体の25.3%,次いで中国(19.4%)フィリピン(11.1%)の順。在留資格別の対前年増加率をみると「専門的・技術的分野の在留資格」が24.2% 増加,「技能実習」が20.2%増加している。絶対数はまだ少ないが,近年はインドネシア・ミャンマー・ネパールの増加率が上昇傾向である。
 
※5 特定技能資格
2019年から始まった日本における在留資格。少子高齢化で深刻化する労働力不足を補う目的で,一定の技能及び日本語能力基準を満たした者が特定技能資格者として在留を許可される制度。資格の取得には技能及び日本語能力の試験に合格する(または技能実習で一定の条件を満たす)必要がある。通算で上限5年の在留期限がある「特定技能1号」と在留期間3年または1年で6か月ごとの更新のある「特定技能2号」の2種類がある。就業は,農業・漁業・建設・自動車整備・外食業・宿泊・造船・航空・飲食料品製造等の14分野に限り認められる。「技能実習」は技能移転を目的にした資格であるので試験はないが,「特定技能資格」は労働を目的にした資格なので相当の知識及び技能を必要とする。
 
※6 洪水と氾濫はほぼ同じ意味で扱われているけれど 
「そんなのどうでもいいよ」と言われそうですが念のため。気象庁では洪水を「河川の水位や流量が異常に増大することにより,平常の河道から河川敷内に水があふれること,及び堤防等から河川敷の外側に水があふれること。」と定義している。「洪」という字は「水が多い」というのが本来の意味で,普段より河川の流量が多くなっていたら洪水ということになる。氾濫は「河川の水がいっぱいになってあふれ出ること」と説明されている。日本の河川のほとんどは両側に堤防が作られているので,河川の水が溢れて河川敷まで浸水していたら洪水,さらに水量が増して堤防を越えてしまったら氾濫,という認識でよいかと思われます。
 
※7 シベリアの大河川
シベリアには日本の国土面積の何倍もの広大な流域面積を持つ河川が3つ流れている。西からオビ川(流域面積299万㎢/日本の7.8倍)エニセイ川(258万㎢)レナ川(249万㎢)である。いずれも低緯度地域に源流持ち,北流して北極海に注いでいる。
 
※8 融雪洪水
シベリアは冬季は極寒の日が続くので,河川はほぼ凍り付いてしまう。春になって気温が上がると低緯度の上流側で先に解氷が進み,川の流れが復活する。ところが下流の高緯度側の地域では河川が凍結したままなので,流れてきた水が行き場を失い河川が氾濫を起こす。この現象が徐々に下流の高緯度側にシフトして,川の流れが全て復活するまでに数ヶ月を有することもある。
 
※9 人口稠密地帯である杉並区
2022年の日本全体の人口密度は331人/㎢で世界平均の61人を大きく上回っている。シンガポールなどのミニ国家(都市国家)では人口密度が7000人/㎢を超えたりするが,北海道より広い面積を持ちかつ日本より人口密度が高いのはバングラデシュ(1157人/㎢)韓国(514人/㎢)インド(416人/㎢)フィリピン(372人/㎢)の4ヵ国しかない。東京都の人口密度は6309人/㎢(2023年)で,23区に限ると15249人/㎢となる。最も高いのは豊島区(22191人/㎢)で最も低いのは千代田区(5824人/㎢)となっている。  

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